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【衝撃】任天堂の岩田社長が起こしたとんでもない革命

どうも!KENT(@kentworld2 )です!

みなさんは岩田聡というお方をご存知でしょうか?

彼は2015年夏にこの世を去ってしまいましたが、2002年から2015年にかけて任天堂の社長を務め、苦境に立たされていた任天堂を成功に導かせた立役者です。

みなさんがよくご存知のニンテンドーDSやWiiを生み出し、世界的な大ヒットに導かせたことはもちろん、彼が亡くなった後に発売されたSwitchの開発方針も彼の思想が強く反映されています。

断言します。

任天堂について岩田聡という男をなしに語ることはできません。

そのくらい、彼は任天堂。

いや、ゲーム業界においてとんでもない革命を起こしてきました。

そこで、今回は岩田聡氏が任天堂の社長に就任してからどんな革命を起こしてきたのか?

その点にスポットを当てて語っていきたいと思います。

本記事を閲覧することで岩田聡氏がとんでもないお方であることがわかると思いますので、ぜひ、最後までご覧になってください。

2002年

任天堂の社長に就任

時は遡ること2002年。

ゲームキューブやゲームボーイアドバンスが現役だった頃、任天堂の社長が交代します。

それまでは山内溥氏が社長を務めていましたが、2002年5月31日。

岩田聡氏が任天堂の代表取締役社長に就任。

山内溥氏からバトンを授かります。

今でこそなんてことのない話に感じますが、当時、任天堂の社長は山内一族が引き継ぐことが通例だったので、ファンの間では衝撃的な出来事でした。

なぜ、山内溥氏は血縁関係のない岩田聡氏を社長に任命したのでしょうか?

大きな要因としては、彼の経営手腕を高く評価していたからです。

元々、岩田聡氏はHAL研究所という会社の社員で、優れたプログラマーとして知られていました。

「ボタンを3回押してショットする」というシステムが画期的だった「ゴルフ」。

風船による浮遊感が心地良いファミコン版「バルーンファイト」のプログラムは彼によるもので、多くの開発者に影響を与えました。

しかし、1992年。

HAL研究所は経営危機に陥ってしまい、倒産寸前の状況に追い込まれてしまいます。

そんな中、当時、任天堂はHAL研究所に10億円以上の援助金を支払うことにしますが、条件がありました。

それは、岩田聡氏をHAL研究所の社長にするというものです。

当時の岩田聡氏は取締役開発部長で、経営とはほぼ無縁の立場でしたが、プログラムの経験を駆使することで優れた経営手腕を発揮。

「星のカービィ」などの大ヒット作を生み出します。

その影響で15億円もあった負債を6年間で完済。HAL研究所の経営再建を成し遂げました。

岩田聡氏はそんな経営手腕を山内溥氏に買われて2000年、任天堂に入社。

取締役経営企画室長に就任しましたが、入社から僅か2年で代表取締役社長に就任します。

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業界の危機

そもそも、岩田聡氏が社長に就任した当時のゲーム業界はどんな状況だったのでしょうか?

ひと言で表すと、微妙な空気が漂っていました。

DVD機能を搭載したプレイステーション2が爆発的なヒットを記録するとか、3D映像の表現能力が向上したことで映画的なゲームを作れるようになるとか。

一見すると明るいニュースも目立っていたように感じます。

しかし、開発費の高騰、ゲームソフトの売上低下という相反する2つの問題点が徐々に表面化していたんですね。

それは任天堂も例外ではありませんでした。

携帯型ゲーム機のゲームボーイアドバンスこそはポケモン人気で一定の地位を確保することができましたが、据え置き型ゲーム機のゲームキューブは苦戦を強いられてしまいます。

前世代機のN64よりもコントローラのボタン数を増やし、ゲームソフトをより豪華にしたにも関わらず、売上はジリ貧。

ライバルのプレイステーション2に大きく水を開けられてしまいました。

そういった閉塞感を打破すべく、山内溥氏はHAL研究所を建て直した岩田聡氏に任天堂の社長になることを要請します。

この時、岩田聡氏はこう考えました。

「HAL研究所に10億円以上の援助金を支払ってくださった任天堂に恩返しする時が来た」と。

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個人面談

岩田聡氏が任天堂の社長に就任した頃。

早速、彼はとんでもない革命を起こしました。

なんと、200人以上もの社員との個人面談を複数回に渡って行うことにしたのです。

これは任天堂の社員全員という訳ではなく、直属に近い部下に対して行っていたものなんですが、200人以上もの方と1対1で。

それも数回に渡って面談を行うというのは並大抵のことではありません。

社長に就任したからには他に優先するべきことがあったんじゃないかと素人目からは思えてしまいます。

なぜ、岩田社長は個人面談に力を入れたのでしょうか?

大きな要因としては、面談をして初めてわかったことが物凄く多いことを知っていたからです。

元々、岩田聡氏はHAL研究所で社長に就任した頃から個人面談に力を入れていて、当時は全社員に行っていました。

相手が不満を抱えていたら話を聞いたり、言いたいことがあったら言ったり。

すると、社内の士気が高まっていき、より良いものが生まれやすい環境になっていきました。

そういった経験があるので、彼は任天堂の社長に就任してからも同じような形で個人面談を行います。

地道ではありますが、こういった取り組みが後の躍進に繋がっていきました。

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2003年:ゲーム人口の拡大

2003年9月。

岩田社長は東京ゲームショウ2003会場において基調講演を行います。

公演のテーマは「ファミコンから20年:ゲーム産業の今とこれから」。

ファミコン発売からのゲーム産業の歴史を語り、今後の展望を語っていくというものですが、その内容はとんでもないものでした。

3Dでなければ時代遅れという風潮は行き過ぎだった

いまのゲーム産業は、複雑化して衰退したシューティングゲームや格闘ゲームと同じ

などと業界に閉塞感が生まれていることを説明し、間口の広さと奥の深さの両立が必要であると発言しました。

こちらは2003年に発売されたゲームソフトの売上TOP10です。

9位の「メイドインワリオ」を除けば全て続編もので、過去作を豪華にしたようなゲームが目立っています。

反面、売上は前作を下回っているものが多く、市場規模も右肩下がりで、岩田社長の発言を裏付けるようなデータとなっています。

しかし、先程の売上ランキングを見てもわかる通り、当時の任天堂は敗者の立場で、業界の主導権をプレイステーション2が握っていた時代です。

多くのゲームファンは岩田社長の発言に注目することはなく、悪く言えば負け犬の遠吠えと受け止められていました。

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2004年

ファミコン ミニを発売

ゲーム産業が縮小するなか、岩田社長はゲーム人口の拡大を根底に掲げ、とんでもない革命を起こしていきます。

当時、彼が掲げていた革命は大きく分けて3つあって、1つめは「ゲームから離れてしまった人達を呼び戻す」ことです。

当時の時点でファミコンが発売されてから20年が経っていた訳ですが、中にはゲームから離れてしまった人も見受けられました。

任天堂はそんなユーザーにまたゲームを遊んでもらうよう、「ファミコン ミニ」をゲームボーイアドバンスソフトとして発売します。

「ファミコン ミニ」とは懐かしのファミコンソフトをゲームボーイアドバンス向けに復刻したシリーズで、全30タイトルが発売されました。

大きな追加要素はなく、新鮮味という意味では薄いんですが、

  • 懐かしのファミコンソフトを携帯型ゲーム機で遊べる
  • パッケージが当時のゲームソフトをミニチュア化したようなデザインである
  • 1タイトルにつき2,000円と安価である

といった点がファミコン世代に突き刺さり、シリーズ累計400万本以上の大ヒットを記録します。

偶然にも同時期にはよゐこの有野 晋哉(ありの しんや)さんが懐かしのゲームをプレイするゲームセンターCXの放送が開始され、レトロゲームブームが発生。

ファミコン時代の名作を最新ゲーム機向けに復刻する流れが生まれ、ゲーム回帰層を取り込むことに成功します。

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ニンテンドーDSを発売

ファミコンミニの発売によって「ゲームから離れてしまった人達を呼び戻す」という目標を達成した岩田社長。

ゲーム人口の拡大にあたって次に掲げた革命が、「ゲーム熟練者もゲーム初心者も楽しめる新しい商品を提案する」ことです。

当時のゲーム業界はこれまでの延長線上にあるゲーム機・ソフトが中心でした。

プレイステーション2はプレイステーション1の。

ゲームボーイアドバンスはゲームボーイの。

ゲームキューブはN64の延長線上で作られたゲーム機で、発売されるソフトも前作を豪華にしたようなものが中心です。

当時はそれが普通のことでしたし、みんな当たり前だと思っていました。

そんな状況のなか、任天堂は新型ゲーム機、ニンテンドーDSを2004年12月2日に発売します。

本ハードはタッチパネルを搭載した2画面の携帯型ゲーム機で、ゲームボーイアドバンスやゲームキューブと並ぶ3本目の柱として発売されました。

特徴的なのが、タッチペンを使って操作を行えることです。

それまでのゲーム機は沢山あるボタンを駆使しないと操作できなかったんですが、DSの場合、ソフトによってはタッチペンだけで操作できてしまいます。

これは、ゲーム熟練者もゲーム初心者も同じスタートラインに立たせる大きなきっかけとなりました。

岩田社長は当時、ニンテンドーDSのタッチパネルについてこう話しています。

十字キーとボタンというファミコン以来の操作は、20年以上の歴史を重ねて、熟練者と未経験者の間に大きなコントローラさばきの差ができていますから、「同じスタートライン」の実現のために、直感的でわかりやすく、かつゲームではほとんど使われていなかったインターフェースが必要だったわけです。

しかも、画面が2つあることと、タッチスクリーンは非常に相性がよく、とても柔軟に活用することができます。下画面は、自由に形を変えるコントローラでもあるのです。しかも、それが直感的に操作できる、というところが大きなメリットになります。

実際、ニンテンドーDSのタッチ操作はボタン操作とは全く異なるもので、初心者にとっては受け入れやすく、熟練者にとっては良い刺激になり、両者を同じスタートラインに立たせることにも成功しました。

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2005年:Touch!Generationsを発足

ニンテンドーDSの発売によって「ゲーム熟練者もゲーム初心者も楽しめる新しい商品を提案する」ことを実現した岩田社長。

ゲーム人口の拡大にあたって次に掲げた革命が、「今までゲームをしていなかった人達を呼び込む」ことです。

当時のゲームユーザーは小学生から20代程度までの若年層。

それも男性が中心で、女性層や中高年・高齢者層はゲームとは疎遠 とされていました。

岩田社長はそんな流れを打破すべく、とんでもない革命を起こしていきます。

それが「Touch!Generations」シリーズの投入です。

「Touch!Generations」はゲームの定義を拡大するために誕生した任天堂の新たなシリーズで、リアルな子犬と遊ぶ新感覚のコミュニケーションゲームの「nintendogs」。

脳を活性化させるトレーニングソフト「脳を鍛える大人のDSトレーニング」。

頭をやわらかくする問題を解いていく「やわらかあたま塾」など、任天堂は2005年4月から6月にかけて従来型ゲームとは一線を画するタイトルを投入してきました。

岩田社長は当時、こう話しています。

いままでのゲームというのは、ゲームという決まった枠のなかでつくるのがほとんどで、でもその枠は、自分たちで決めたようなものだったんです。

「こうしないとゲームらしくないぞ」って。

だけど、そんな古い枠にとらわれずに、もっと広がってもいいんじゃないかと考えて、開発したのが「Touch!Generations」シリーズだったりする訳です。

と、仰っていました。

従来型ゲームとは異なる層をターゲットに据えていたこともあり、発売直後こそは地味な売上でしたが、岩田社長は地道な販売戦略を行います。

中高年向けのイベントに「脳トレ」の試遊台を設置したり、全国のゲームショップに行けば体験版のデータを自分のDSにダウンロードできるようにしたり。

そういった苦労が実を結び、普段、ゲームを遊ばない層にも徐々に広まっていき、DSは2005年のクリスマス商戦で大ブレイクを果たします。

2005年12月第4週の週間販売台数は61.5万台。

本体の累計販売台数は瞬く間に400万台、500万台を突破し、対応ソフトも飛ぶように売れていきました。

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2006年

Wiiを発売

ニンテンドーDSや「Touch!Generations」を大ヒットさせ、次々とゲーム業界に革命を起こした岩田社長と任天堂。

彼らの革命は留まることを知らず、2006年にはとんでもない新型ゲーム機を発売します。

それが、みなさんもよくご存知のWiiです。

今でこそ定番のゲーム機となったWiiですが、当時としては何もかもが異質なものでした。

ゲーム機としては短すぎる正式名称、性能よりも消費電力や軽量化を重視したマシン設計、棒状のコントローラ、清潔感を意識したカラーリング。

何もかもが異彩を放っていました。

特に異質だったのがコントローラです。

従来のコントローラは両手で握るものだったのに対し、Wiiでは片手で振って遊ぶのが基本で、正式名称にリモコンと付けられていましたからね。

その根底には「リビングに置いてある大きなテレビに繋げてもらう」というものがあります。

ゲーム機としては短すぎる正式名称、性能よりも消費電力や軽量化を重視したマシン設計、棒状のコントローラ、清潔感を意識したカラーリング。

どれもこれも「家庭内でゲームが敵視されず」、「リビングに置いてある大きなテレビに繋げてもらう」ことを目標にして設計しています。

しかし、あまりのとんでも仕様に当時、ゲームファンの間では大きな議論が巻き起こりました。

「ゲームキューブからグラフィックの進化がなさすぎる」

「リモコンを振るだけの浅いゲームばかりになってしまう」

なんて意見が飛び交ったものですが、DSに続いて「今までゲームをしていなかった人達を呼び込む」ことに成功し、発売するやいなや世界中で大ヒットを記録します。

特に海外での人気は尋常ではなく、あのファミコンを超えるほどの売上を記録しました。

岩田社長は当時、こう話しています。

わたし自身は、なによりも、従来の延長線上こそが恐怖だと思ったんです。

いまのまま進めば、どんどん力だけの戦いになっていって、ついていけるお客さんの数もどんどん少なくなっていく。

だから、そっちじゃない道に舵を切るということだけは、もう、はっきりとしていたんです。

Wiiの発売以降、任天堂は性能重視の道に舵を切ることはありませんでした。

3DSにしても、Wii Uにしても、Switchしても、同時期に発売されたゲーム機と比べたら性能は低めとなっていて、それ以外の部分に力を入れています。

その決定打となったのが岩田社長が生み出したWiiになる訳なので、彼は任天堂。

いや、ゲーム業界に大きな革命を起こしたことになります。

誤解のないように言っておきますが、任天堂はゲーマーを見捨てた訳ではありません。

その証拠に岩田社長は当時、こう話しています。

ゲームばかりやっているとダメになるとか、脳が壊れるとかいういい加減な話まで含めて、ゲームに社会的な悪いイメージばかりが先行してしまう。

そうすると、ゲームが好きな人でさえ、遊ぶことに妙な罪悪感を感じ始めてしまう。

それはゲームをやっていなかった人がゲームをやり、ゲームのおもしろさを理解することによって、ものすごく可能性があるわけです。

ゲームをやる人の社会での居心地がもっとよくなれば、ゲームらしいゲームだって、もっとつくりやすくなる。

実際、任天堂はWii本体と同日に「ゼルダの伝説 トワイライトプリンセス」を発売しています。

本作は任天堂スタッフが総力を上げて作り上げたアクションアドベンチャーゲームで、開発に3年弱。

携わったスタッフは実に100人以上という超大作です。

手軽に遊べるゲームもガッツリ遊べるゲームも両方ある。

岩田社長は「そういう幅があるべきだと思うし、どっちかしかないのは不健全」と仰っていました。

ですので、ゲーマーを見捨てた訳ではないのです。

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2006年:社長が訊くを連載開始

Wiiの発売が近づいてきた頃、岩田社長は情報発信においてもとんでもない革命を起こします。

それが「社長が訊く」の連載です。

「社長が訊く」とは岩田社長自らがインタビュアーとなって開発スタッフに話を訊くというもので、Wiiの発売をきっかけに行われました。

通常のインタビューと違うのが、聞き手が社長という当事者であることです。

当事者であるということは第三者では訊けないことも訊ける訳ですから、読み物として価値の高いものが生まれやすく感じます。

ましてや岩田社長の場合、物事を分解してわかりやすく伝えることに長けているお方です。

開発者の声をきちんと確認し、残していくという意味ではこれ以上ないほど適任なので、そういった事情もあって連載が開始されました。

元々、岩田社長は好きか嫌いかではなく、「これは、自分でやるのがいちばん合理的だ」と思えばすぐに覚悟が決まるお方です。

HAL研究所が経営危機に陥ってしまい、建て直しをするために社長に就任した時も、入社から僅か2年で任天堂の社長に就任した時もそうでした。

社長が訊くも同じような理由で始動したものだと思われますが、次第に、いろんなソフトについて、どんな開発者が、どのような意気込みで開発されたのか?

興味が湧いたようで、2006年から2015年もの9年間。

実に200回以上にも渡って連載される長寿コーナーとなりました。

その物量は尋常ではなく、今となっては任天堂の開発思想を知るうえでは貴重な資料となっています。

ぼく自身も記事を執筆する際には社長が訊くでの発言を参考にすることが多いので、企画を立ち上げた岩田社長には感謝したいですね。

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2011年

3DSを大幅値下げ

Wiiが発売されてから5年後。

そこには苦境に立たされていた任天堂が居ました。

あれだけヒットしていたDSやWiiですが、急速な市場環境の変化によって失速。

ブームが過ぎ去ってしまい、任天堂の業績も右肩下がりという状況でした。

そんな状況を打破すべく発売されたのがニンテンドー3DSですが、価格が25,000円と高価であったこと。

発売が東日本大震災の発生と重なったことで販売ペースが鈍化してしまい、スタートダッシュに躓いてしまいます。

そんな状況のなか、岩田社長は発売から僅か半年で10,000円もの大幅値下げをするという大胆な策に出ました。

岩田社長は時間が経つほど値段が下がるビジネスモデルを懐疑的に見ていたお方です。

なぜ、発売から僅か半年で大幅値下げに踏み切ったのでしょうか?

当時、彼はこう話していました。

今回、このような前例のないタイミングで値下げに踏み切ったのは、ニンテンドー3DSの発売前と、現時点で大きく状況が変わり、今思い切った手を打たなければ、多くのお客様にニンテンドー3DSを楽しんでいただく未来がつくりだせない可能性が高まったと判断したためです。

ソフトの作り手の方々にも、販売に携わるみなさまにも、「ニンテンドー3DSは、ニンテンドーDSの後継のゲーム機として間違いなく普及する」という確信を持っていただけなければ、ニンテンドー3DSが勢いよく多くのお客様に広がり、ソフトが充実し、結果的にニンテンドー3DSを購入されたみなさま全員にご満足いただくという循環がつくれません。

岩田社長はゲーム機が売れず、新しいソフトが発売されなくなるという様子をゲームキューブの頃に見てきました。

彼が3DSの大幅値下げを決行したのは、ゲームキューブの再来を恐れていたからなんですね。

もちろん、最初に購入した人が損したと思わないよう、値下げ日の前日である、2011年8月10日までに3DSを購入した人に向けたフォローも行いました。

それが「アンバサダー・プログラム」で、ファミコンソフト10本とゲームボーイアドバンスソフト10本。

計20タイトルを3DSにダウンロードして遊べるという特典で、非常に豪華な内容でした。

それでも当時は反発が目立っていましたが、この時に配信されたアドバンスソフト10本に関しては「アンバサダープログラム」登録証を持っていないと入手できない貴重なものです。

その価値は時が経つほど高まっているので、ぼく自身は「3DSを初期に買ってよかった」と思っています。

発売から僅か半年での大幅値下げにしても、岩田社長の狙いである

ニンテンドー3DSが勢いよく多くのお客様に広がり、ソフトが充実し、結果的にニンテンドー3DSを購入されたみなさま全員にご満足いただくという循環を作る

という意味では今でも間違いだとは思っていません。

実際、3DSは大幅値下げをしてから、日本国内限定ではありましたが、爆発的に普及しました。

やがて、ゲームを初めて遊ぶ人向けの入門機として定着したのですから、あの時に岩田社長が行った革命は間違いだとは思っていません。

まあ、発売当初の25,000円という価格は、携帯型ゲーム機としては強気すぎたとは思いますけどね。

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ニンテンドーダイレクトを始動

大幅値下げによって3DSが息を吹き返すなか、岩田社長は再びとんでもない革命を起こします。

それがニンテンドーダイレクトの発足です。

ニンテンドーダイレクトとは岩田社長自らが「直接!」ユーザーに任天堂の最新情報をお伝えする映像コンテンツで、2011年10月21日から始動しました。

始動した大きなきっかけとなったのが、任天堂が発信する情報がユーザーに歪んだ形で伝わるケースが増えていたことです。

元々、任天堂自身は商談会やプレスカンファレンスを通じてメディアに最新情報を伝達する手段を取っていましたが、それが正確に伝わらないことが多くあったんですね。

特に有名なのが、新聞メディアの飛ばし記事です。

任天堂自身は何も発表していないのに新型ゲーム機の新しい機能を憶測で記事にしたり、文脈を無視して恣意的に言葉を抜き出したり。

任天堂も何か報道される度に報道された内容を否定していました。

また、同時期には「○○速報」などのまとめサイトが爆発的なアクセス数を記録するようになり、岩田社長らの発言を曲解して取り上げた記事が増えていきます。

ニンテンドーダイレクトはそうした事態に対処するため発足した訳ですが、予想を超える反響を呼びます。

マリオの新作が発表されたらSNSがマリオの話題で埋め尽くされたり、映像の合間に挟まれる小ネタが話題になったり。

司会を務める岩田社長の知名度も急激に上昇し、両手を下げながら「直接!」と発するパフォーマンスや、トゥイッターなどの独特な発音はニンテンドーダイレクトの名物となりました。

彼のユーモアセンス溢れるパフォーマンスは回を重ねる毎にパワーアップしていき、知名度だけではなく、ユーザーからの好感度も上昇していきます。

個人的にはインターネット上で任天堂の最新情報を色んな人と共有する場ができたことを嬉しく思っています。

当時は任天堂の最新情報を共有する場所がインターネット上では不足していて、個人ブログやSNSではいわゆるゲーマー向けの人気タイトルが話題の中心でした。

ところがニンテンドーダイレクトという派手な情報媒体が生まれたことで多くのゲームファンが任天堂の話題をするようになり、ぼく自身も肩身が狭い想いをすることが少なくなったんですね。

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2013年:3期連続赤字

ニンテンドーダイレクトによってインターネット上の任天堂コミュニティが活性化する一方、任天堂の業績は悪化の一途を辿っていました。

3DSの大幅値下げやWii Uの販売不振によって営業利益は2011年度から2013年度にかけて赤字続き。

世間の関心もスマートフォンのゲームに移ってしまい、任天堂。

そして、岩田社長への風当たりが強くなっていきました。

投資家からは社長の解任や社員のリストラを要請する声が目立つようになり、DSやWiiが大ヒットしていた頃とは正反対の状況となっていきます。

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2014年:胆管腫瘍が発見

経営不振が続く任天堂。

そんな任天堂にさらなる追い打ちをかけたのが、岩田社長の病気です。

2014年6月。

岩田社長は健康診断を行ったところ、胆管腫瘍を発見します。

胆管腫瘍とは、胆管に発生する、ガンに近いものです。

切除手術をしても転移・再発しやすく、死亡につながることも多いと言われています。

岩田社長は2014年6月から手術のために療養を取ることになり、同時期に開催されたE3 2014、株主総会を欠席することにしました。

それから2ヶ月後の2014年8月。

復帰を果たし、同年10月には公の場で再び顔を見せますが、その姿は以前とは明らかに異なりました。

それまではふくよかな姿をされていましたが、復帰後は痩せてしまい、別人のようになっていました。

ネット上でも岩田社長の体調を心配する声が殺到しましたが、彼はTwitterでこう発信します。

[岩田]私が痩せたことが心配とのコメントを複数目にしました。大きな手術で痩せたのは事実ですが、お蔭様でこの2ヶ月半ほど体重も安定しており、経過は順調です。応援してくださるみなさんや、お医者様や病院のスタッフのみなさんには本当に感謝しています。

思えば彼は不安な出来事があっても弱音を吐くことはなく、周りを安心させる言葉を発することに徹していました。

株主総会でもそうです。

端から見たら赤字続きで厳しい状況なのに、投資家への回答は前向きなものが目立っていました。

そのスタンスは仕事に復帰してからも変わることはなく、2014年10月の経営方針説明会では今期の営業利益は400億円にする計画を掲げ、ユーザーはもちろん、投資家も安心させていきました。

そして、2015年からはとんでもない革命を再び起こします。

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2015年

スマホゲームへの参入

2015年3月。

岩田社長は発表会の場において、任天堂がディー・エヌ・エーと業務・資本提携を果たし、それまで避けていたスマートデバイス向けサービスを共同開発することを発表します。

任天堂と言えばゲーム専用機を作り、その中で自社のゲームソフトを販売する会社です。

そんな任天堂が他所のプラットフォームにゲームソフトを提供するのは衝撃的な出来事でした。

と言っても負けを認めたのではなく、任天堂が持つIPの価値を最大化するための前向きな取り組みであって、ゲーム専用機のビジネスに関しても今まで以上に情熱を持っていると岩田社長は説明します。

その1つの証明として同時に発表したのが後にニンテンドースイッチとして発表されるコードネームNXです。

この時点では詳細な発表はありませんでしたが、岩田社長は翌年の2016年には詳しい話ができると発言します。

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Twitter上で情報を発信

2015年6月。

アメリカロサンゼルスで世界最大のコンピュータゲーム見本市、E3 2015が開催されます。

岩田社長は前年に続いてE3の参加を見送りましたが、Twitterでは元気な姿を見せていました。

同時期に開催された「Nintendo Digital Event」「Treehouse Live」の情報を発信したり、宮本茂さんがロサンゼルスに到着した様子を発信したり。

さらには病気で手術をした影響で少しスリムになったことで公式Miiを現状に合わせると発表したり、 #Iwatter という洒落たハッシュタグを付けたり。

以前にも増してユーモアあるツイートをしてユーザーを楽しませていました。

しかし、2015年7月に体調を崩して入院し、7月11日には容態が急変。

胆管腫瘍のためお亡くなりになられました。

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天国へ

岩田社長が亡くなってから2日後の7月13日。

任天堂より岩田社長の死去が公表されました。

彼の死は世界中で大きく報道され、大勢の方が悲しみに暮れます。

かくいうぼくも岩田社長の死去が公表された時は心にポッカリと穴が空いたような気持ちになりました。

あれだけ元気にニンテンドーダイレクトで新作ゲームの情報をお伝えしていた人が、こんなにもアッサリ逝ってしまうとは・・・。

あまりのショックに当日は彼のことで頭がいっぱいになりましたし、報道番組は何度も繰り返し視聴しました。

そして、胆管腫瘍とはどんな病気なのか?

様々なサイトや本を読んで勉強をしましたし、彼が死の直前に取った行動の意図を考えるようになりました。

なぜ、あのタイミングでスマートフォンゲームへの参入を決断したのか?

Twitterで元気な姿を見せていたのは自身の病気が影響しているのか?とか。

色々と考えてしまいましたが、彼の葬儀の日。

糸井重里氏は宮本茂氏に「岩田さんは、どのくらいの確率で、自分が治ると思っていたんでしょうか」と訊いてみたところ・・・

「それはもう、完全に治るつもりで、死ぬつもりはまったくなかったでしょうから」と仰っていたことを明かします。

当時の宮本茂氏は任天堂の代表取締役専務を務めており、岩田社長の近くにいたお方です。

そんな方がこう話すのですから、彼が死の直前に取った行動は前向きなものであると思うようになりました。

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ありがとう

55歳という若さでこの世を去ってしまった岩田社長。

世界中が悲しみに暮れるなか、Wii Uソフト、「スプラトゥーン」ではある現象が起こっていました。

同作のロビーではネットワークサービス「Miiverse」に投稿されたユーザーのメッセージやイラストを確認できますが、岩田社長の死去が公表されてからは追悼コメント・イラストが続々と投稿されます。

Thank you iwata

岩田社長、今まで沢山の楽しいゲームの数々、ありがとうございました。

また、ライバルであるプレイステーションも公式Twitterで「岩田さん、これまでありがとう」というメッセージを残しています。

ぼく自身も岩田社長には感謝の気持ちでいっぱいです。

彼が生み出してきたゲームソフトは楽しませていただきましたし、彼の思想には大きな影響を受けています。

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2017年:ニンテンドースイッチが大ヒット

岩田社長が亡くなってから2年後。

彼がコードネームNXと発表していたゲーム機はニンテンドースイッチという名称で世に送り出されました。

すると、瞬く間に大ヒットとなり、任天堂を本当の意味での復活に導かせていきます。

そんなニンテンドースイッチですが、実は、岩田社長のアイディアを反映させたゲーム機だったりします。

どこにでも持ち歩くことができ、ネットワークを形成し、人々と楽しめる。

Switchはそんなアイディアで作られたゲーム機ですが、これは、岩田社長が重要視していたものです。

残念ながらコードネームNXと発表してから4ヶ月後に亡くなられてしまいましたが、きっと、彼は天国でSwitchの大ヒットを喜んでいることでしょう。

今はそう思っています。

改めて、岩田社長。

今までありがとうございました!

本記事で岩田社長に興味を持たれた方。

もし、よろしければ「岩田さん 岩田聡はこんなことを話していた。」という書籍をご覧になってください。

こちらの本は岩田社長の言葉をまとめたもので、大半はウェブサイトに載っているものです。

ですが、再構成によってまるで岩田社長自らが執筆されたエッセイ本のようになっていて、彼の生涯がわかりやすくまとまっています。

また、特別企画として宮本茂さん、糸井重里さんの特別インタビューも掲載されていて、彼らから見て岩田社長がどんな人だったのかもわかるようになっています。

ぼくは今回の記事を執筆するにあたって3回ほど読み直しました。

そのくらい、良いことが書かれていますので、ぜひ、ご覧になってください。

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本記事の動画版

 

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