スマブラやカービィの生み親「桜井政博」が起こした革命を振り返る

どうも!KENT(@kentworld2 )です!

みなさんは桜井政博というゲームクリエイターをご存知でしょうか?

このお方、ただ者じゃないんですよ。

自身が開設されたYouTubeチャンネル の登録者は僅か1日で20万人を突破。

Twitter でも大人気で、フォロワー数は100万人を超えました。

これは日本のゲームクリエイターとしては前代未聞の記録で、圧倒的な人気を博しています。

なぜ、桜井政博さんはこんなにも人気なのでしょうか?

ひとことで表すと、ゲーム業界で数多くの革命を起こしてきたことにあります。

「大乱闘スマッシュブラザーズ」「星のカービィ」といった人気タイトルを生み出したことはもちろん、画期的な新システムを発明したり、あのゲーム機の普及に貢献したり。

ゲーム史に残る数々の偉業を成し遂げています。

そういった積み重ねがあったからこそ、これだけ多くの人に支持されているんですね。

そこで、今回は桜井政博さんの半生を振り返り、ゲーム業界でどんな革命を起こしてきたのか?

その点にスポットを当てて語らせていただきます。

本記事を閲覧することで桜井政博さんがとんでもないお方であることがわかると思いますので、ぜひ、最後までご覧ください。

1970~1989年:HAL研究所へ入社するまで

時は遡ること1970年8月3日。

日本万国博覧会が盛り上がっている中、桜井政博さんは東京都武蔵村山市で生まれます。

彼は幼少期の頃からコンピュータゲームが好きで、様々なゲームを遊んで育ちました。

そんな桜井さんの人生に大きな影響を与えたのが、1984年に発売された「ファミリーベーシック」です。

これは当時、人気だった家庭用ゲーム機「ファミリーコンピュータ」の周辺機器で、ロムカセットやキーボードを本体に接続することで簡単なゲームプログラムを自作できました。

たった数行のプログラムでマリオを歩かせることができたり、ジャンプや落下の個性付けができたり。

簡易的なゲームを作ることもできたので、桜井さんはここでゲーム作りの楽しさを知りました。

本来、このようなプログラミングはパソコンで行うものですが、当時の桜井さんは中学生。

大金を持っていなかったので、比較的安価だった「ファミリーベーシック」が代替品となり、半年間貯めたお金で買われました。

「ファミリーベーシック」でプログラミングの楽しさを学んだ桜井さんはその後、セガ主催のゲーム企画キャンペーンに応募。

みごと入賞を果たし、将来はゲームクリエイターになることを決意。

バイト代でゲームを買いまくり、ひたすら研究をするようになりました。

人気のゲームが持つ面白さの秘密を研究するのはもちろん、面白くないと思ったゲームがなぜそうなってしまったのかを言語化したり。

普通の人だったらクソゲーと切り捨ててしまうゲームでも反面教師として研究をするようになります。

そんな時に出会ったのが、「ガルフォース」です。

同作はSFアニメを題材にしたシューティングゲームですが、エンディングが非常に作り込まれたものだったので、桜井さんは感銘を受けてしまいます。

「まるで劇場映画のエンディングみたいだ」

「一体、どこの会社がこんなに凄い熱意と信念で作ったのだろうか?」

調べてみたところ、HAL研究所であることがわかり、桜井さんは決意します。

「ここ会社に入りたい!ここのスタッフになりたい!」

こうして桜井さんは高校卒業後にHAL研究所に入社を果たし、様々な革命を起こしました。

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1990~1992年:星のカービィ誕生

桜井さんが最初に起こした革命が、「星のカービィ」を生み出したことです。

HAL研究所に入社してからまもなく、社内で「だれもが楽しめるゲームの企画」が募集されます。

桜井さんはそこで「星のカービィ」の原型となる企画書を提出。

敵を吸い込んだり、吐き出した敵を発射して攻撃できるアクションゲームであることをアピールします。

その後、企画書が通り、新入社員であるにも関わらずディレクターとしてゲームを作ることになりました。

今では考えられない話ですが、当時はゲームバブルで、入社したばかりの新人にディレクターを任せられるような状況だったんですね。

そんな「星のカービィ」の原型となった作品の開発コンセプトは、「初心者用のゲームを作る」です。

当時のゲームは難しいものばかりで、ゲーム初心者は門前払いされてしまうような状況でした。

例えばアクションゲームですと、敵に1回あたっただけで操作キャラクターが致命傷を負ってしまったり、道中に落ちたら即ミスの穴が大量に設置されているなんてことがよくあったんですね。

当時のゲームソフトは容量が少なく、難易度を高くしないとすぐにクリアされてしまうという理由があったとは言え、ゲーム初心者が入って来られるきっかけがないのは健全ではありません。

そこで、「星のカービィ」ではゲーム初心者に向けた調整を行います。

敵に当たってもすぐにミスにならないよう体力制を導入したり、ホバリングアクションでふわふわ飛べるようにしたり。

当時は難しいゲームが常識だったので、開発中は「それで良いのか?」などと反対の声もありましたが、桜井さんは推し進めました。

その結果、ゲーム初心者にも受け入れられ、「星のカービィ」は全世界で500万本以上を販売。

当時、倒産寸前の危機に陥っていたHAL研究所の経営再建を成し遂げるきっかけとなりました。

このように「星のカービィ」はゲーム初心者に向けた調整を行ったことが大ヒットの要因だと思われますが、もう1つ、キャラクターが可愛いというものがありますよね?

実は、カービィのデザインを手掛けたのも桜井さんだったりします。

元々は試用版に向けて描き起こしたキャラクターだったんですが、コレが好評で、製品版でもこのままで行くことにしたんですね。

カービィの色をピンクに決めたのも桜井さんのようですし、同作が大ヒットしたのは彼の影響が大きく感じます。

その後、「星のカービィ」は続編の発売が決まり、シリーズ化を果たすことになりますが、桜井さんはさらなる革命を起こします。

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1993年:コピー能力誕生

大ヒットした「星のカービィ」。

それから約1年後、続編となる「夢の泉の物語」が発売され、桜井さんは前作に続いてディレクターを担当することになりますが、1つ不可解なことがありました。

それは、対応機種がファミリーコンピュータであったことです。

当時はスーパーファミコン全盛期で、ファミコンは過去のゲーム機になりつつありました。

にも関わらずなぜファミコンで新作を発売するのか?

理由としては、「ファミコンですぐに作ってすぐに売りたい」というHAL研究所の指示があったからです。

企画が立ち上がった当時はHAL研究所がまだまだ苦しい時期で、開発環境を整えるのに時間が掛かってしまったスーパーファミコンで新作を作るのは難しかったんですね。

そういった事情もあってファミコンで新作を作ることにしましたが、この判断が「星のカービィ」の可能性をグンを広げることになりました。

それは、コピー能力というアイデアが思い浮かぶきっかけになったからです。

コピー能力とは敵キャラクターが持つ特性をコピーする要素で、特定の敵を飲み込むことで様々なアクションを繰り出せるようになります。

口から火を吐けるようになったり、剣を振り回せるようになったり。

色んな形でステージを攻略できるようになったほか、カービィのキャラクター性を高める役割も果たしました。

そんなコピー能力ですが、誕生したきっかけは当時のファミコン市場に合わせたものだったりします。

当時のファミコンは市場が熟しきっていまして、桜井さんは初心者が入ってくることはほとんどないと想定したんですね。

そこで、「初心者と上級者を同時に満足させるには?」という課題を作り、コピー能力というアイデアが思い浮かびます。

その結果、攻略の自由度が生まれ、吸い込みや吐き出しだけでクリアするのはもちろん、コピー能力を使って大胆に突破することもできるようになりました。

また、ゲーム初心者に向けた新要素としては、サブゲームを導入。

これは1つのボタンだけで楽しめるという簡単なゲームで、クリアすることでご褒美が貰えるようになっています。

一見すると他のゲームで見られたボーナスゲームのようですが、新たに搭載されたワールドマップに配置したことで強制感をなくすことに成功。

余裕のある上級者はスキップできるようにしました。

このように桜井さんは「夢の泉の物語」で「星のカービィ」の可能性をグンと高めることに成功しましたが、3年後。

歴史的な傑作を生み出すことになります。

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1996年:星のカービィの最高傑作が誕生

1996年3月21日。

桜井さんがディレクターを務めたスーパーファミコン用ソフト「星のカービィ スーパーデラックス」が発売されました。

同作は国内だけで110万本以上の大ヒットを記録しましたが、それ以上に凄かったのがユーザー評価です。

「星のカービィ Wii」が発売されるまでの15年間。

長らくシリーズ人気No.1に君臨し続け、2021年に放送されたTVゲーム総選挙でも72位にランクインしました。

人気の大きな要因となったのが、「2人同時プレイ」に対応し、「オムニバス形式」を採用していたことです。

家族や友達と一緒に遊べることから面白さがさらに広がり、オムニバス形式を採用したことで色んなタイプのカービィを遊ぶことができましたからね。

なぜ、このようなゲームを生み出したのでしょうか?

そこには桜井さんの意向はもちろん、マリオやゼルダを生み出した宮本茂さんからのリクエストも含まれていました。

当時、宮本さんはマリオで2人同時プレイできないか考えていたんですが、なかなか上手くいかなかったんですね。

でも、カービィはマリオよりもテンポがゆっくりなので、2人プレイをするには合っているんじゃないか?

そう感じられたようで、

「ふたり同時プレイができる横スクロールのアクションゲームを作ってみてほしい」

という課題を桜井さんらHAL研究所の開発チームに提示します。

実際には簡単なものではなく、開発は困難を極めたようですが、様々なアイデアによって2人同時プレイを実現。

カービィが持つコミュニケーションツールとしての側面を強化させることに成功しました。

他にも「スーパーデラックス」はひとつのコピー能力に対して色んなワザを使えるようにしたり、オムニバス形式にすることで短くて多様性のある遊びを実現したり。

あらゆる層の需要に応え、長らくシリーズの決定版として君臨しました。

このように桜井さんは「星のカービィ」シリーズのディレクターとして様々な革命を起こしてきましたが、1999年。

新しい舞台に旅立ち、さらなる成功を納めることにします。

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1999年:大乱闘スマッシュブラザーズ誕生

1999年1月21日。

桜井さんがディレクターを務めたN64ソフト「ニンテンドウオールスター!大乱闘スマッシュブラザーズ」が発売されました。

同作は任天堂キャラクターが乱闘を繰り広げる対戦アクションゲームで、相手を場外にふっとばして勝敗を競うルールを採用しています。

なぜ、このようなゲームを生み出したのでしょうか?

その背景には複雑化を極める格闘ゲーム市場がありました。

当時の格闘ゲームはコマンド技がどんどん複雑になってしまい、初心者と上級者の壁がどんどん引き離されていったんですね。

そこで、桜井さんは初心者でも楽しめるよう間口を広くした設計にします。

各キャラクターが繰り出せる技はワンボタンとスティックだけで発動するように調整。

試合に逆転性を持たせるため、勝利条件は相手の体力を0にすることではなく、ダメージを蓄積させて場外にふっとばすルールを採用。

誰でも楽しめるよう、最大4人同時プレイ、アイテム、ステージギミックといったパーティゲーム的な要素を追加。

当時の格闘ゲームとは一線を画すシステムにしていきます。

また、オリジナルキャラクターですとゲームの世界観を伝えづらくなるという理由で、プレイアブルキャラクターは任天堂の人気キャラクターを採用。

その結果、発表時は各地で話題になりましたが、同時に様々な誤解を受けていました。

「マリオたちが殴り合うのはどうなのか?」といった見た目の批判はもちろん、「間口は広いがすぐに飽きてしまいそう」という批判を受けてしまったり。

桜井さんとしては、複雑化する格闘ゲームのアンチテーゼとしてスマブラを生み出したのに、それが裏目になってしまうこともあったんですね。

そこで、桜井さんはスマブラの魅力を伝えるホームページ「スマブラ拳!!」を開設。

開発者自らが立ち上げたホームページだけあって非常に濃い内容で、スマブラに秘められた面白さがよくわかるようになっています。

また、投稿欄に寄せられた読者からのお便りの一部には返信を行い、ユーザーと製作者とのコミュニケーションの場としての地位も確立しました。

そういった地道な努力が実を重ねたこと。

やり込んでみると実は非常に奥深いゲームであることが口コミで広まっていき、スマブラは発売から数年単位で売れ続けるロングセラーを記録。

最終的にはN64を代表とする対戦ゲームとして名を知らしめることになりました。

「星のカービィ」に続いて「大乱闘スマッシュブラザーズ」でも成功を収めた桜井政博さん。

当時はまだ30歳にも達していなかったので、若手のゲームクリエイターとしても注目を集めました。

それから2年後の2001年。

桜井さんに過去最大級のミッションが与えられます。

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2000~2001年:新ハードのキラーソフトを開発

2001年11月21日。

桜井さんがディレクターを務めたゲームキューブソフト「大乱闘スマッシュブラザーズDX」が発売されました。

同作の開発コンセプトとなったのが、「ゲームキューブの推進」です。

ゲームキューブは前世代機となるN64の反省を踏まえた作りになっていて、より多く普及させるよう、話題作が途切れずに発売できるようスケジュールを計画的に組むことにしました。

本体と同日に「ルイージマンション」を発売したのかと思ったら僅か1ヶ月後に宮本茂さん渾身の一作である「ピクミン」を発売。

桜井さんもゲームキューブソフトのプロジェクトに参加することになり

「キューブがいちばん売れるようにする方法は何か?」

「ただ1作品が注目を浴びるのではなく、全体をグッと推し上げるためにはどうしたら良いか?」

色々考えた結果、「スマブラDX」を企画。

前作同様、間口は広くして、やりこみにも耐えうるゲームにすることを目標に開発されました。

しかし、ゲームキューブ発売初期に間に合わせないといけなかったので、ディレクターとなった桜井さんは多忙な日々を送ることになります。

開発が行われた13ヶ月間は日曜祭日や年末年始を含めて休みなし。

のってるときは36時間ぶっ続けで働いて4時間寝るとか、常識を逸した生活を送りながら開発を進めていました。

その甲斐あって「スマブラDX」は2001年11月21日に発売。

ゲームキューブにとって初の年末商戦に間に合い、同ハードの普及に多大な功績を残しました。

国内での初週売上は、当時のゲームキューブの累計販売台数を超える35万本。

累計売上は150万本を超えて、同ハード最大のヒット作となりました。

ゲーム自体の完成度も極めて高く、

  • 前作から大幅にボリュームアップした点
  • 細かいテクニックが大量に追加された点

などがユーザーの間で絶賛され、発売から20年以上が経過した今でも根強い人気を誇っています。

ぼくもリアルタイムでプレイしましたが、当時はあまりのボリュームに圧倒されました。

前作と比べて映像がめちゃくちゃ美しくなっているにも関わらず、プレイアブルキャラクター、対戦ルールの種類は2倍、ステージ数は3倍に増加。

1人用モードとしては、アクションステージが追加されたアドベンチャー、50種類以上のステージが用意されたイベント戦、ふっとばした距離を競う「ホームランコンテスト」などが追加。

体感的には「スマブラ2」ではなく「スマブラ3」。

いや、「スマブラ4」と言っても良いほどの進化具合で、これが13ヶ月で作られたなんて、桜井さんはさぞ無理をしていたことを実感しました。

こうして桜井さんは過去最大級のミッションをクリアすることに成功しますが、同時期。

「星のカービィ」に関する様々な仕事をこなすことになります。

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2001~2003年:カービィの様々な仕事をこなす

「大乱闘スマッシュブラザーズDX」が発売された頃、アニメ版「星のカービィ」の放送がスタートします。

原作者である桜井さんはアニメ版の監修を行いましたが、同時期に立ち上がったゲーム版の開発にも関与することになりました。

まず発売されたのが、ゲームボーイアドバンス用ソフト「星のカービィ 夢の泉デラックス」です。

同作は桜井さんが手掛けた「夢の泉の物語」のリメイク作で、現代向けに様々なアレンジがなされています。

カービィの移動速度を早くしたり、背景をCGで描き起こしたり。

桜井さんはそんな「夢の泉デラックス」にゼネラルディレクターとして参加。

主にディレクターたちの仕事を確認して、ゲームの内容全体を統括することになりました。

例えば、とりあえず枚数を多く描いてごまかそうとしたデザイナーがいたら

「枚数をはぶいて、もっと動きをよくしよう」

と指摘するとか。

いまの時代に、どこに出しても恥ずかしくないようなソフトにするよう監修をしていきます。

続いて発売されたのが、「カービィのエアライド」です。

本作はワープスターに乗ってコースを走行していくレースゲームで、2003年7月11日に発売されました。

桜井さんはそんな「エアライド」に監修という立場で関与。

するつもりでしたが、開発の遅れから急遽ディレクターに就任。

急ピッチで開発を進めることになります。

そのため「スマブラDX」のような規模のゲームではありませんが、桜井さんの作品らしく、様々なこだわりが詰まっていました。

ゲームで使用するのはスティックとAボタンのみ。

それ以外のボタンを使う必要はないので、ゲームが苦手な方でもスッと入っていけるようになっています。

このような操作形式にしたのは複雑化するレースゲーム市場へのアンチテーゼ的な意味が込められていました。

当時のレースゲームは複雑で難しく、「一定の記録を出さないとダメ」といった感じで初心者を切ってしまう作りの作品が目立っていましたからね。

かと言って単純で浅いゲームという訳ではなく、

  • 大量に隠された「テクニック」
  • 個性豊かな10種類以上の「エアライドマシン」
  • 条件を満たすことでマスが埋められていく「クリアチェッカー」

など、やり込むことで見えてくる要素を数多く盛り込んでいきます。

極めつけが、「シティトライアル」というゲームモードです。

このモードでは街中を一定時間探索してパワーアップアイテムを集め、スタジアムで勝敗を競うというルールを採用しています。

街中に設置されるアイテムやマシン、発生するイベント、スタジアムのルールは全てランダム。

プレイする度に変化するので、繰り返し遊ぶことができました。

そういったランダム性・アドリブ性の高さがユーザーの間で高く評価され、「カービィのエアライド」は口コミで人気が広がっていきます。

ゲームキューブの販売が低迷していた頃に発売されたことから出荷本数は控えめでしたが、対戦が面白いゲームであること、実況動画との相性が良いことから世代を超えて愛されるようになりました。

その証拠に、発売から20年近くが経ってから放送されたTVゲーム総選挙でも76位にランクインしています。

これは「星のカービィ」シリーズとしては「Wii」「スーパーデラックス」に次ぐ高順位で、販売本数に対するユーザー満足度が非常に高いこと、令和の時代になっても愛されていることが裏付けられました。

このように桜井さんはまたしても大成功を納めることになりましたが、「カービィのエアライド」発売直後、大きな決断をします。

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2003~2004年:独立へ

「カービィのエアライド」発売直後、桜井さんは長年務めていたHAL研究所を退職されました。

なぜ、退職されてしまったのでしょうか?

理由は大きく分けて2つありました。

1つめは、「売れなかったらダメという責任ある立場で仕事がしたい」。

2つめは、「ゲーム業界に貢献したい」というものです。

桜井さんはHAL研究所を退社された当時、

常に業績を上げ続けなければいけない宿命を持つ会社という単位で、決まったお給料をもらいながらゲームを作ることにまず疑問があります

やる気はたくさん持っているけれど、うまくいかなくて困っているようなゲーム会社の助けに少しでもなれればと

と仰っていました。

そのためHAL研究所を退社された後はフリーという立場でゲーム業界に携わることになり、これまで以上に多彩な仕事をすることにします。

週刊ファミ通ではコラムの連載を開始。

自身がゲームを作ったり、他のゲームを遊んでいる時に考えている色んなことを語っていきます。

連載はHAL研究所を退社される直前である2003年4月から開始。

それから18年以上に渡って連載が続き、大量の単行本が発売されました。

このコラムはゲーム好きの間で人気を博し、ゲームの教本として役立つのはもちろん、桜井さんの知名度を高める役割も果たします。

このように桜井さんはフリーという立場で仕事をするようになり、「星のカービィ」の開発からは身を引くことになりますが、1つだけHAL研究所との契約が残されていました。

それは、開発中だったゲームボーイアドバンス用ソフト「星のカービィ 鏡の大迷宮」の監修を最後まで続行するというものです。

同作はアニメ版「星のカービィ」が開始された時期に企画が立ち上がり、フラグシップという、外部の開発会社に外注するという形で制作が進みました。

しかし、開発を担当することになったスタッフは「サムライスピリッツ」などを手掛けた元SNKの方々が母体で、「星のカービィ」の開発ノウハウを持ち合わせていません。

また、「夢の泉デラックス」のグラフィックなどを提供することはできましたが、元のプログラムは渡すことができず、仕様書を見ながら制作を直してもらうことになったんですね。

「それだけでも大変なのに、新作としてのオリジナル要素を入れるのはさすがに大変だ!」

といった理由で桜井さんは監修という形で携わるようになり、カービィらしからぬ部分を指摘して代替案を出すことにします。

その甲斐もあって「鏡の大迷宮」は好評を博し、桜井さんは無事にHAL研究所との契約を終了しました。

そして、フリーのゲームデザイナーとしてカービィやスマブラ以外の色んな仕事を引き受けることにします。

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2005年:カービィやスマブラ以外のゲームを開発

2005年3月10日。

桜井さんがフリーになってから初めて開発したゲームが発売されます。

それがこちらの「メテオス」です。

本作は宇宙が舞台のパズルゲームで、降ってくるブロックの色を縦横に3個以上揃えていきます。

特徴的なのが、揃えたブロックが打ち上がることです。

従来の落ち物パズルゲームですと、揃えたブロックは消えたり壊れたりするものですが、「メテオス」では打ち上げるという真逆の発想で作られています。

にも関わらず爽快感は残されていて、特にブロックの色を連続で揃え、二次点火が決まった時は他にはない気持ち良さを味わうことができました。

操作方法も独特で、プレイヤーが行えるのは落ちてきたブロック(メテオ)を上下に入れ替えるのみ。

降ってくるブロックは操作できず、落ちたとしても左右に入れ替えることはできないようになっています。

このように「メテオス」は独特な操作形式を採用していますが、それ以外の要素も個性的です。

ステージとなる惑星によってブロックが落ちる速度や画面の広さが変化したり、背景や効果音が変化したり、集めた素材を合成することで新しい惑星やアイテムを生み出せたり。

従来の落ちものパズルゲームとしては一線を画す内容で、新しい楽しさを提供することに成功しました。

メディアからも好評で、週刊ファミ通のクロスレビューでは40点満点中38点を記録。

当時のパズルゲームとしては最高記録を更新しました。

反面、国内での売上本数は6万本程度に落ち着いてしまい、桜井さんがディレクターを務めた作品としては低めの数字で終わってしまいます。

それから1年後の2006年2月23日。

「そだてて!甲虫王者ムシキング」が発売され、桜井さんはゲームデザインを担当します。

これは当時人気だったアーケードゲーム「甲虫王者ムシキング」をモチーフにした携帯電子ゲームで、虫たちを育成することができました。

一見すると桜井さんと「ムシキング」は接点がなさそうですが、なぜ、ゲームデザインを担当することになったのでしょうか?

理由としては、セガの方々に企画依頼を受けたこと。

何のプラットフォームにも属さないゲームを一度は作ってみたかったことにあります。

仕事を引き受けた桜井さんは2005年のゴールデンウィークを使って企画書を完成。

ムシキングが持つジャンケンやカードゲーム的な楽しさを残しつつ、日常生活の中でお世話をするという、携帯電子ゲーム的な楽しさを融合させることにします。

言ってしまえば「たまごっち」や「デジタルモンスター」を踏襲したようなゲームですが、そこは桜井さん。

「グー」「チョキ」「パー」といった3つのボタンであらゆる操作ができるようにしたり、沢山のミニゲームで遊べるようにしたり、赤外線通信による対戦機能を搭載したりと色んなこだわりが詰まっています。

さらに、「スーパーデラックス」にあった「刹那の見切り」風のミニゲームを収録したり、データ消去の画面では「後悔しませんね」のメッセージを加えるという、桜井節を発揮。

ムシキングファンはもちろん、桜井さんのファンも満足できるゲームとなりました。

このように桜井さんはフリーになってからも意欲的なゲームを続々と開発していきますが、ゲーム開発以外にも様々な活動をしていきます。

PRESS STARTというゲームミュージックコンサートの企画者の1人として参加することにしたり、「ゲームの面白さ」に対する講義を行ったり、ゲームショップのアルバイトをしたり。

ゲームクリエイターという職にとらわれることなく、マルチな形で活動をしていきます。

そして2005年5月中旬。

世界最大のコンピュータゲーム見本市:E3が開催され、各社の次世代機がお披露目されます。

桜井さんも視察に向かいましたが、そこで大きな転換期を迎えました。

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2005~2008年:スマブラの新作を開発

E3 2005に参加された桜井さん。

彼はそこでスマブラの新作「大乱闘スマッシュブラザーズX」をWii向けに作ることを決意します。

経緯を説明すると長くなるので簡単にまとめますと、

任天堂が新型ゲーム機、WiiをE3で発表し、そこでスマブラの話をしたところ、会場にいた人が新作を作っていると誤って解釈。

産み親である桜井さんにも問い合わせが殺到するが、すぐに任天堂の岩田元社長から「なるべくディレクターに近い立場で新作スマブラに携わってほしい」と依頼。

桜井さんは少し迷ってしまうが、「自分にしかできないことがあり、それがいま求められている」と判断。

「スマブラX」のディレクターになることを決意。

といった感じですね。

「スマブラX」を作ることにした桜井さんはいろいろな仕事を断り、開発に全力を注ぐことにします。

一方の任天堂は「スマブラX」の開発に合わせて新オフィスを設立。

宮本茂さんの紹介によって「グランディアIII」を作り終えたばかりのゲームアーツのスタッフも開発を手伝うことになり、「スマブラX」は2005年10月から開発が始動しました。

開発に携わったスタッフは約100人。

この人数はフルタイムで関わった人たちで、監修者や外注のスタッフを加えるとさらに増えます。

その結果、「スマブラX」は前作の「スマブラDX」以上にボリュームのあるゲームとなりました。

プレイアブルキャラクター数は25体から35体に増加。

ステージ数は29種から41種に増加。

新モードとしては

  • クリアまで10時間近くも遊べる「亜空の使者」
  • 参戦キャラの原作を少しだけ遊べる「名作トライアル」
  • 遠く離れた友だちと遊べる「オンライン対戦機能」
  • 自分だけのオリジナルステージを作成できる「ステージ作り」

などが追加され、やり過ぎなんじゃないかと思うくらい詰め込まれています。

また、「メタルギアソリッド」シリーズのスネーク、「ソニック・ザ・ヘッジホッグ」のソニックといった他社のキャラクターもゲスト参戦。

ゲーム会社の垣根を越えたお祭りゲーとなり、以降、他社キャラクターの参戦が定着します。

反面、「家族皆で、リビングでゲーム」「お母さんに嫌われない」といったWiiの方向性に沿うものではなく、ミスマッチなところがありました。

が、そこはあえて気にせず、 「これがWiiにおける『スマブラX』の役割なんだと」考え、従来型ゲームとして突き進めていくことにします。

その結果、任天堂ファンを中心に期待度が爆上がりとなり、「スマブラX」は発売週だけで82万本を販売。

「スマブラDX」の初週35万本を超えて、当時のWiiソフトとしては最速のペースで売れていきました。

評価も良好で、週刊ファミ通のクロスレビューではシリーズ初の40点満点を記録。

YouTubeチャンネル「KENT for 任天堂ゲームレビュー」で行った「視聴者が選ぶ好きなWiiソフトランキング」でも1位となりました。

「スマブラX」で任天堂ソフトを再び手掛けることになった桜井さん。

同作が発売されてから半年後、任天堂の岩田元社長に

「折り入って、話があるのだけど・・・」

と呼び出されます。

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2008~2012年:3DS向けの新作を開発

岩田社長とふたりきりで会食をすることになった桜井さん。

彼はそこで任天堂の新型ゲーム機、ニンテンドー3DSが開発中であることが明かされます。

そして、同ハードで新作を作ってほしいと依頼されます。

そこで考えたのが、「新 光神話パルテナの鏡」です。

同作は三人称視点のアクションシューティングゲームで、少年のピットを操作して様々なミッションをクリアするのが目的となっています。

当時、この手のゲームは海外での人気が高い反面、日本ではメジャーではなかったのですが、桜井さんはあえてあまり選びそうにない道を選びました。

理由としては、「3DSの初期に発売予定であることから、同時期に発売されるタイトルは移植作やカジュアルゲームなど、労力の掛からない作品が中心になることが予想できた」こと。

「岩田社長が桜井さんに作ってほしい作品は既視感の高いものや小規模な作品ではないと予想できた」ことなどがあります。

当初はオリジナルタイトルでいく予定でしたが、企画を進めるなか、様々な理由によって「光神話 パルテナの鏡」の続編で行くことが決定。

25年ぶりの新作として売り出すことにしました。

同作の開発にあたって「プロジェクトソラ」という会社を設立。

2009年3月から契約社員の募集が始まり、同年5月から始動しました。

その後、実に3年もの歳月を経て完成。

2012年3月22日という、3DSが2年目を迎える頃に発売されましたが、その内容は初期のタイトルとは思えないほど作り込まれたものでした。

3DSが持つ裸眼立体視機能をフルに活かした奥行き感のある映像。

スライドパッドやタッチスクリーン、Lボタンを使った斬新な操作システム。

悪魔の釜による細かな難易度調整、ピットとパルテナ様による漫才のような掛け合い。

オンライン対戦モード、ARカードを使ったバトルなどなど。

桜井さんがディレクターを務めた作品らしくサービス精神旺盛な内容となっていて、各地で高く評価されました。

週刊ファミ通のクロスレビューでは40点満点を獲得。

YouTubeチャンネル「KENT for 任天堂ゲームレビュー」で行った「視聴者が選ぶ好きな3DSソフトランキング」でも3位にランクインを果たしています。

売上的には国内32万本。

全世界108万本と開発規模の割には低めに終わってしまいましたが、3DSの歴史に名を刻みました。

無事に「新 光神話パルテナの鏡」の仕事を終えた桜井さん。

しかし、彼は同時期にあの人気タイトルを2本同時に作ることを決断します。

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2011~2014年:3DSとWii U向けのスマブラを開発


2011年6月。

Wii Uと3DS向けに「スマブラ」の新作を開発することが発表されました。

2011年と言えば「新パルテナ」の開発が佳境に入った頃です。

そんな中で、なぜ「スマブラ」の新作を2本も作ることにしたのでしょうか?

理由としては、中心的な人物である桜井さんが会社やチームに属さないフリーランスだったことがあります。

そのためスマブラの新作を出す度にスタッフ構成が変わってしまい、ノウハウや制作物の蓄積ができない状態だったんですね。

「だったら同時に開発して、両方に提供しよう」

桜井さんはそう考えて同時開発を決断しました。

また、今回はバンダイナムコスタジオという、大手のゲーム会社を中心とした体制で開発することになったので、人材の問題も解決。

それでも桜井さんにとっては監修する箇所が多く、大変だったようですが、2014年後半に2タイトルとも完成することができました。

今作で特徴的なのが、携帯型ゲーム機と据え置き型ゲーム機の利点を活かしていることです。

プレイアブルキャラクターやゲームバランスなど、基本的な部分は共有していますが、ゲームモードやステージは差別化が図られていまして、別内容となっているんですね。

また、3DS版は本体を持ち寄ってのローカル通信対戦に。Wii U版は最大8人同時プレイに対応していたりします。

初代スマブラを遊んでいた頃、

携帯ゲームになって外でも友達と遊べたら良いなぁ

とか、

8人同時プレイになったらどうなるんだろうなぁ

と妄想していたものですが、まさか、本当に実現する日が来るとは感慨深いですね。

そんな「スマブラ for」ですが、対応機種が3DSやWii Uになったことでアップデートや追加コンテンツの配信ができるようになりました。

よって、ソフトが完成したら「はい!おしまい」なんてことはなく、継続的なアップデートや追加コンテンツの配信が行われます。

(私はいつ休めるんでしょうね)

追加コンテンツとしては新規ファイターなどが継続的に配信され、任天堂が配信する情報番組「ニンテンドーダイレクト」の隠し玉として発表することが定着しました。

同時期、桜井さんは任天堂の岩田元社長に新型ゲーム機、ニンテンドースイッチの話を聞かされます。

同ハードは据え置き型ゲーム機でありながらも携帯型ゲーム機としても利用できることが特徴で、任天堂が過去に発売してきたゲーム機の遺伝子を継承させたような作りとなっています。

岩田社長は同ハードの発売に合わせ、

「『スマブラ for』と同じチームを引き連れて、携帯機と据え置き機のよいとこ取りをしたような、『スマブラ』の決定版つくろう」

といった感じの話を桜井さんとしていました。

しかし・・・

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2015~2021年:最後のミッション

2015年7月11日。

岩田社長は胆管腫瘍のためお亡くなりになられました。

元々、岩田社長は2014年から体調を崩され、一時は回復に向かっていたんですが、容態が急変。

そのまま帰らぬ人になってしまいました。

事実を知った桜井さんは頭が真っ白になりそうなほどショックを受けてしまいます。

桜井さんにとって岩田社長はHAL研究所に入社していた頃からの上司で、立場や場所を変えながら、長い付き合いをしていたお方です。

生涯でいちばんの上司であり、いちばんの理解者でした。

そんな方ともう会えなくなる。

その事実を実感するのに時間がかかってしまいましたが、桜井さんは決意しました。

「自分はとにかく、『スマブラ』のプロジェクトを達成すること」

「それが岩田さんに対する最大の手向けになるだろう」

と。

そして2015年12月。

桜井さんはニンテンドースイッチ用ソフト「大乱闘スマッシュブラザーズSPECIAL」の企画書を完成させます。

今作のコンセプトは「全員参戦」

いままでの作品に参戦したファイターを、いろいろパワーアップさせたうえで、全員もれなく使える

シリーズの決定版とも言える非常に贅沢な内容で行くことにします。

ゲームシステムの多くは過去作を踏襲。

ガラリと別のものにすることも考えたようですが、そうなるとボリューム感を出せないので、大きく変えない道を選択します。

開発は前作と同じくバンダイナムコスタジオが担当。

前作と同じスタッフに加え、新たに多くの人を加えるという人海戦術で2015年から2018年に渡って開発が進められました。

その結果、「スマブラSP」はかつてないほど巨大なゲームとなります。

プレイアブルキャラクターは74体。ステージ数は100以上。

収録されているBGMは800曲以上という、前代未聞の大ボリュームとなりました。

売上もニンテンドースイッチが大ヒットしたこともあって好調で、国内では637万本。全世界では2,882万本を販売します(2022年6月末時点)。

これは「スマブラ」シリーズとしてはもちろん、対戦アクションゲーム・対戦格闘ゲームとしても過去最高の売上となりました。

メディア・ユーザー評価も非常に良好で、日本ゲーム大賞2019では大賞を始めとする様々な賞を受賞。

あらゆる面で最高の結果となり、桜井さんは岩田社長から与えられた最後のミッションをクリアします。

その後、「スマブラSP」は3年間に渡って追加コンテンツを配信。

絶対に参戦できないと思われていた様々なキャラクターの参戦を実現させます。

「ドラゴンクエスト」シリーズの勇者、「バンジョーとカズーイの大冒険」のバンジョー&カズーイ。

「マインクラフト」のスティーブ/アレックス、「キングダムハーツ」のソラなどなど。

長年、ユーザーが求めていた他社キャラクターが参戦を果たしました。

参戦が決定するまでの苦労は並大抵のことではなかったようですが、桜井さんの努力や様々な方の協力によって実現させます。

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2022年~:YouTuberへ

そして2022年8月24日。

桜井さんはYouTubeチャンネル「桜井政博のゲーム作るには 」を開設します。

このチャンネルでは「ゲーム業界の発展に役立つべくゲーム作りのノウハウなどを伝えていく」ことを主な目的としており、ゲーム開発の裏側を知ることができます。

このような趣向のチャンネルは内容がマニアックになりがちですが、プレゼンテーションが上手い桜井さんはわかりやすさを重視。

多くの方がスッと理解できるようになっています。

そんな桜井さんのYouTubeチャンネルですが、冒頭でもお話をしたように、開設から僅か1日で20万人以上の登録者数を達しているんですよね。

これは桜井さんが今までに積み上げてきた信頼の積み重ねに感じます。

HAL研究所に入社してからの33年間。

数え切れないほどの革命を起こしてきましたからね。

改めて桜井さん、いつもありがとうございます!これからも応援しています!

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本記事の動画版

 

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