
僕たちのゲーム史 (星海社新書)
みなさんは「僕たちのゲーム史」という書籍はご存知でしょうか?
2012年に発売された少々古い本ですが、面白い着眼点で日本のゲーム史について綴られているので楽しく読ませて頂きました。
本記事では本書の簡単なレビューと読んでいて感じた日本のゲーム史について語っていきます。
目次
僕たちのゲーム史に書かれている事
まずは「僕たちのゲーム史」の内容をザックリと語っていきます。
本書はコンピュータゲームの30年間についてとても詳しく綴られていますが、着眼点が独特なんです。
コンピュータゲーム史の歴史ってハード競争がメインになりがちだけど、本書の場合、大まかに言うと「ボタンを押すと反応する」ものがコンピュータゲームと定義しつつ、そこから何が変わっていったのかを綴られているんですね。
30年の歴史を持つコンピュータゲームは何が変わって行ったのか?
僕は真っ先に”グラフィック”の向上を浮かべましたが、本書では”ストーリー”との向き合い方について挙げられていました。
言われてみると今のゲームはストーリー要素があって当たり前だけど、昔はありませんでしたもんね。
しかもストーリー要素の重要性は時が経つ毎にどんどん増してきています。
とても腑に落ちたので、ここからは僕の観点から変わりゆくコンピュータゲームの30年間について語っていきます。
ボタンを押すと反応するだけでも楽しかった昔のゲーム
「僕たちのゲーム史」では「ボタンを押すと反応する」物がコンピュータゲームと定義しています。
この定義付けを見てから思い出しました。
そう言えば僕、昔はボタンを押すことで画面上のキャラクターが反応するだけで楽しんでいたと。
Aボタンを押したらキャラクターがジャンプして、十字キーを押すことで左右に移動して・・・それだけで楽しんでいました。
それがいつしかステージをクリアする事に意識が行き、ゲームをクリアして世界の平和を救う事が目標になっていったんですね。
これって立派なストーリー性になる訳なので、知らないうちに自分の中でもストーリーがゲームの中で重要な位置付けになっていました。
ストーリー=イベントシーンじゃなかった!
全クリしてお姫様を救う!
これが僕のゲームをクリアする大きな動機です。
考え方によってはストーリーありきのように見えますが、だからといってストーリーを楽しむためにプレイしているわけではないんですよね。
その証拠に見ているだけのイベントシーンがダラダラと続いたら「早く触らせてくれ!」と思いがちですから。周りでもそういう方は沢山見てきました。
でも、矛盾していますよね?ストーリーありきなのにイベントシーンが長いと不満を持ってしまうって。
それで気がついたんですが、エンディングが存在するゲームってスタートからゴールまでがストーリーなんですね。
例えイベントシーンが長かろうが短かろうが操作するしない関係なくスタートからゴールまでがストーリーなんだと。
これは本書を読んで気付かされた事です。
それまで僕はストーリー=イベントシーンだと思っていて、自分がプレイしている部分はストーリーと見なしていませんでしたw
僕はキャラクターを自由に操作出来てエンディングが存在する一人用のアクションゲームが一番好きなんですが、これってつまり、自分で行動を起こしてストーリーを進めるのが好きってことなんですね。
ストーリーありきで作られている最近のゲーム
最近のゲームをプレイして感じるのは、ストーリーの重要性がどんどん増している事です。
言ってしまえばストーリーありきなんじゃないかと。
マップ画面に行き先マーカーが表示されるのも、行き先が一本道なのもすべては用意されたストーリーを快適に楽しんでもらうため。
グラフィックが綺麗になり、ボイスが追加されたのもストーリーを堪能してもらうため。
攻略するステージに明確なテーマ付けがなされ、NPCと共に行動するゲームが増えたのもストーリーに起伏を持たせるため。
少々強引かもしれませんが、エンディングが存在するゲームの多くは最終的にストーリーを楽しんでもらうためにゲームデザインを構築しているんじゃないかと思うようになりました。
てっきりイベントシーンが多くて登場キャラクターがよく喋るゲームばかりがストーリーありきと思っていましたが、そんな事はないんですね。
コントローラを床に置いて長いムービーを見させるのか?
NPCと行動を共にしながらリアルタイムの会話イベントを流してストーリーを楽しんでもらうのか?
すべては開発者のセンスに委ねられていて、大抵のゲームはプレイヤーにストーリーをどう楽しんでもらおうか試行錯誤して作っているのだと。
実際、まずはストーリーや世界観を組み立ててから開発を始めるゲームクリエイターは今まで多く見てきました。
こんな事、白い記号を操作するだけだった卓球ゲームのAC「ポン」(1972年)が出た頃は考えられなかったと思います。
ゲームにストーリー要素を求めるかで二分する趣向
FC「スーパーマリオブラザーズ」が空前のヒットを記録してから30年。
あれからゲームは大きく様変わりしてゲームユーザーの趣向も細分化されてきましたが、大まかに分けるとまずはゲームにストーリー要素を求めるかそうでないかに二分される印象です。
そして、ストーリー要素を求めている人もどのように向き合いたいのかは人それぞれ大きく異なると思います。
自分が行動を起こして物語を進めていくのが好きな能動型。キャラクターの話を聞くのをメインに物語を進めていくのが好きな受動型。
このように枝分かれしていくでしょうし、そもそも、操作しているキャラクターはプレイヤーにとってどんな位置付けなのかも異なっていくでしょう。
操作しているキャラクターは自分の分身なのか?それとも他人なのか?
考え方次第で趣向もガラッと変わっていくと思います。
大きく変わったゲームの価値観
また、ここまでストーリー要素がゲームにとって根深い物になった事で今と昔では価値観が大きく変わったと思います。
昔はボタンを押すと反応するだけで楽しかったゲーム。
そこから入ってきた者としては未だにゲームはおもちゃの延長線上にあるという認識があります。
しかし、ストーリーで遊ぶのが浸透してきた今、ゲームはマンガやアニメ、映画の延長線上に位置するものだと感じている人が増えているかも知れない。
僕はこのズレによって変わりゆくゲーム業界を悲観視したり、価値観が異なる人に自分の意見を押し付けて醜い争いをしておりました。
しかし、そんなのは遠い昔の話。今は色んな人が居るものなんだと受け入れるようになりました。
全体のまとめ
以上!「僕たちのゲーム史」を読んで感じた事です。
「僕たちのゲーム史」は330ページ以上に渡って独特な着眼点でコンピュータゲームの30年間をとても詳しく綴られていて興味深い内容でした。
強いて言えばもう少し一貫性をもたせて欲しいところですが、さすがに「ボタンを押すと反応する」「ストーリーの扱い」という2つのテーマだけでは限界があると思いますし、モヤモヤする部分があったからこそ今回記事にしたくなったので良しとします!w
いちゲームファンとしては独特な着眼点を持たせながらもこれだけの長文でコンピュータゲームの歴史を語れる著者(さわやか氏)の文章力や構成力、根気に感心させられました。
補足:ストーリーありきじゃないゲーム
補足ですが、世の中にはストーリーありきじゃないゲームも沢山存在します。
例えばマルチプレイ重視のFPS/TPS/格闘ゲーム。
これらのゲームは今起こっている対戦に勝つことが何よりも重要で、エンディングは存在しません。あったとしてもサブモードとして用意されているくらい。
スマホのソーシャルゲームも最近はエンディングが存在する作品もありますが、淡々とキャラクターを育てていくイメージが根強く、ストーリーありきには感じません。
しかも今はここで挙げたようなタイプのゲームに人気が集まっている印象です。
なので、ゲームにストーリー要素を求めている人が必ずしも大多数ではないんですね。むしろ少数派になってきたかも。
関連記事:ストーリー、シングルプレイ重視のゲームは終わったのか?
おお!この本を紹介するコラムが初チャットの話題にして1年以上経って登場するとは、すごい!この本は中坊の風邪で寝込んでた日に、父が買ってきてくれてそのあと最低2週はした本です。
日本におけるゲームの流れをコンピュータゲームの「ボタンの反応」と定義し、そこから、マリオのヒットの理由、ゲームにおけるストーリーの流れ、CDROMハード戦争、氷河期など、体系的にまとめられていて、教科書にしてほしいレベルでした。これのおかげで、ゲームの知識は大幅に伸びましたよ(*’▽’)
コンピュータゲームは、世界的に芸術扱いになってますが、それでも未だに明確な定義はないと言う感じです。で、これはゲームが何者にもなれる総合ツールである証拠かと思います(これについては、いずれ語りたいと思います)。
ストーリー重視は、芸術性追求の結果と、商業的に売れるからでしょうね。オープンワールドの成功なんかはそれを現してます。