どうも!KENT(@kentworld2 )です!
ぼくが歴代で一番好きなゲーム機を挙げる場合、真っ先にNINTENDO64(以下、N64)と答えます。
今後も素晴らしいゲーム機に出会えるとは思いますが、1位のN64は絶対に揺るぎません。
それだけぼくにとってN64というゲーム機は思い出深く、あらゆる影響を受けました。
今、こうしてゲームブログを運営しているのもN64の影響が大きかったりします。
そこで、N64の誕生日(6月23日)に合わせて改めて歴史を振り返っていきましょう!
目次
N64とは?
NINTENDO64(ニンテンドウろくじゅうよん)は、任天堂が発売したスーパーファミコンの後継機です。
最大の特徴は、64ビットのCPUをいち早く搭載していたこと。
加えて3Dの描写能力が当時のワークステーション並みに優れていたことも大きな特徴だったりします。
コントローラには業界初となるアナログスティック(3Dスティック)を採用。
これにより3D空間を360度自由に動けるゲームを生み出しやすくなり、よりアナログ感が増したんです。
その一方で供給媒体はスーパーファミコンに引き続きROMカセットを採用。
当時はCD-ROMが主流だっただけに任天堂の強いコダワリを感じました。
しかし、この強いコダワリが当時トップシェアだった任天堂が3番手にまで落ち込んでしまう要因にもなってしまったんです・・・。
1993年:次世代ゲーム機ラッシュが始まる!?
1993年。当時はまだまだスーパーファミコンが強さを見せていました。
任天堂からは「スーパーマリオ」シリーズを始めとする大ヒット作が次々と発売され、大手のサードパーティも次々と以下のような大ヒット作を生み出していきます。
ファイナルファンタジー、ドラゴンクエスト、ストリートファイター。
100万本どころか200万本を売り上げるタイトルがコンスタントに発売され、ゲーム機と言えばスーパーファミコンと言えるような状況でした。
そんな中、当時最大のライバルだったセガが「コードネーム:セガサターン」の開発を発表します。
加えて任天堂と決別したソニーも「PS-X(プレイステーション)」を発表。
それに合わせて任天堂も「プロジェクト・リアリティ(N64)」を1995年末に発売すると発表。
新たなゲーム機戦争の波が目前まで迫ってきていることを感じさせる流れを生み出しました。
1994年:一足早く他社から次世代機が発売!
それから1年後の1994年末。
N64よりも一足先にプレイステーション、セガサターンといったゲーム機が発売されます。
これらのゲーム機はCD-ROMを供給媒体としており、アーケードで当時人気を博していた3Dゲームの移植作を目玉タイトルにしていました。
対する任天堂はE3 1994にて「プロジェクト・リアリティ」の仮称が「ウルトラ64」になったと発表。
「キラーインスティンクト」「クルージンUSA」といった欧米向けのゲームを発表します。
1995年:徐々に明かされるN64
1994年末に発売されたプレイステーションとセガサターン。
年が明けても人気は衰えることはなく、プレイステーションは「リッジレーサー」。セガサターンは「バーチャファイター」目当ての購入が目立ち、どちらも早々と100万台を達成します。
ソフト開発のしやすさから対応タイトルも光の速さで増えていき、僅か1年で150タイトル前後を発売。
対する任天堂はE3 1995にて「ウルトラ64」の最終モデルを公開し、8月には正式名称がN64であると発表。
9月には発売日が1996年4月21日であることを発表し、「スーパーマリオ64」や「カービィボウル64」をプレイアブル出展します。
さらに外付けゲーム機の64DD(ろくよんでぃーでぃー)を発表!
本ハードとN64をドッキングすることで遊びが拡張し、ディスクドライブを供給媒体にすることでロムカセットの弱点と言えた低容量をカバーするとアピールします。
「ファイナルファンタジー」や「ドラゴンクエスト」シリーズの最新作も本ハードで発売するとアナウンスされていたので、当時は次世代機戦争の本命と思われていました。
1996年:悪夢の始まり
発売直後からソフト不足に!?
他社に遅れること1年5ヵ月。
ついにN64が1996年4月21日に発売されるかと思いきや、ソフト開発の遅れから発売日が1996年6月23日に延期されます。
同日に発売されたのは以下の3タイトル。
・パイロットウイングス64(任天堂)
・最強羽生将棋(セタ)
「スーパーマリオ64」こそ今も語り継がれるほどの名作ですが、残りの2タイトルは地味なのが否めません。
さらに問題だったのが、ロンチから3ヵ月間経ってようやく次のタイトルが発売されたこと。
以下、1996年のN64ソフトスケジュールになります。
6月23日 スーパーマリオ64(任天堂)
6月23日 パイロットウイングス64(任天堂)
6月23日 最強羽生将棋(セタ)
9月27日 ウェーブレース64(任天堂)
11月22日 ワンダープロジェクトJ2 コルロの森のジョゼット(エニックス)
11月29日 栄光のセントアンドリュース(セタ)
12月14日 マリオカート64(任天堂)
12月20日 超空間ナイター プロ野球キング(イマジニア)
12月20日 実況Jリーグ パーフェクトストライカー(コナミ)
12月20日 麻雀MASTER(コナミ)
なんと、半年間に発売されたのは僅か10タイトル!
しかも大ヒットしたのは「スーパーマリオ64」と「マリオカート64」のみという状況だったんです。
対するプレイステーションやセガサターンが1年目に150タイトル前後も発売していただけに雲泥の差と言っても良いくらいでしょう。
何故、N64はここまでソフトを揃えられなかったのでしょうか?
そこにはソフト開発の難しさという根本的な問題を抱えていました。
N64は家庭用ゲーム機の開発に不慣れなSGIが設計したハードであるうえ、当時は3D技術のツールや開発環境もほとんど整備されていなかったんです。
そのためごくごく一部のメーカーが独自にノウハウを積み上げて開発しないといけない状況になってしまい、当の任天堂でさえもソフト開発に苦戦してしまいました。
しかし、N64本体と同日に発売された「スーパーマリオ64」の出来が極めて良かったんです!
本作は「スーパーマリオ」シリーズ初となる3Dアクションゲームになります。
ゲームシステムはスタートからゴールを目指す形式からキーアイテムを集める形式に変更され、箱庭マップ探索型のゲームに生まれ変わりました。
操作性やカメラも当時としては非常に高い水準で、後に発売された多くの3Dアクションゲームは本作を参考に作られたと言われています。
このように「スーパーマリオ64」はゲーム史に名を刻むほど高く評価されましたが、ロンチにいきなり凄いものを発売したものだから各社に高い壁を設けてしまうという皮肉な状況を生み出してしまいました・・・。
加速する任天堂離れ
同時期、任天堂はスクウェアという大切なパートナーを失ってしまいます。
当時のスクウェアは大作志向がどんどん強まっており、映像美を追求していました。
如何に迫力ある映像をゲームソフトに盛り込めるのか?
そのためには大容量メディアは必須と言えたんですが、ソフト供給するハズだった64DDの発売目処がなかなか立たなかったんです。
その一方で既に発売されていたプレイステーション、セガサターンはCD-ROMを供給媒体にすることで大容量のゲームを実現していました。
スクウェアの心が揺れ動くなか、ソニーはスクウェアの勧誘に成功。
「ファイナルファンタジー」シリーズ最新作の対応ハードは64DDからプレイステーションに変更され、事実上の鞍替えを果たします。
それだけならまだしも、スクウェア社長のN64に対する苦言が任天堂社長に伝わって彼の逆鱗に触れしまいました。
そのためスクウェアと任天堂の関係は急速に悪化。
1996年発売のSFC「トレジャーハンターG」以来、任天堂ハード向けには全くソフト供給をしなくなったんです。
同年にはSFC「スーパーマリオRPG」を共同開発するほど蜜月関係だったというのに・・・。
※6年後の2002年。両社は和解します。
1997年:窮地に陥る!?
さらに追い込まれるN64
年が明けて1997年。
N64にとって追い打ちをかけるようなニュースが飛び込んできました。
ファミコン、スーパーファミコンで圧倒的な強さを見せていた国民的RPG、「ドラゴンクエスト」がプレイステーションへ移籍することが発表されたんです。
「ドラゴンクエスト」シリーズと言えば任天堂ハード!
当時はそんなイメージが強くあっただけに、その最新作がN64で発売されないのは大きな痛手でした。
さらに同月の1997年1月には「ファイナルファンタジーVII」がプレイステーション向けに発売。
瞬く間に300万本以上を売り上げ、プレイステーションの販売台数も急伸。
1997年だけで約500万台を販売し、空前のプレイステーションバブルが始まります。
任天堂にとって辛かったのは、プレイステーションどころかセガサターンの後塵を拝する立場にまで追いやられてしまったこと。
前世代機ではあれだけ強さを見せていたのに、たったの数年でここまで落ちぶれてしまうとは。
こんな状況だからこそハイクオリティなゲームを供給するべきなのに、ソフト開発の遅れでなかなか思うようにいきません。
目玉タイトルの「ゼルダの伝説 時のオカリナ」は1996年内に発売する予定が2年近くも発売延期。
そして、切り札となった64DDも大幅に発売が延びてしまい、商機を逃してしまいました。
今でこそなかったことにされている64DDですが、当時は壮大なプロジェクトが動いていたんです。
ロムカセットの低容量を克服し、大容量の書き換え領域を活用することによって新たなキャラクターやコースデータを提供。
N64の弱点を補いつつゲームの遊びを拡張する素晴らしい構想でした。
発売予定タイトルとしては「ファイナルファンタジーVII」「ドラゴンクエストVII」「MOTHER 3」などが挙がっていましたが、幾度の延期によっていずれも中止になってしまいます。
意地を張る任天堂
このように1996年から1997年にかけて急速な任天堂離れが巻き起こりましたが、ここまでの文章を読んでいるとみんな薄情に見えないでしょうか?
実は、任天堂自身の態度にも問題があったんです。
当時の任天堂は非常に王曼で、サードパーティから非常に高いロイヤリティ(お金)を頂戴していました。
さらにクオリティを高めるためサードパーティが年間に発売できるタイトルの制限を設けるなどかなり厳しく取り締まっていったんです。
そんな中でプレイステーションやセガサターンはサードパーティの参入障壁を下げて勧誘の流れを作っていたのですから、そちらへ流れてしまうのも無理はありません。
振動パックを発明するも…
任天堂離れが進む中、1997年4月27日にはN64「スターフォックス64」が発売。
本作はSFC「スターフォックス」に続く3Dシューティングゲームですが、業界初になるハズだった初の試みを行っていたんです。
それがコントローラの振動!
周辺機器「振動パック」をコントローラに接続することでシーンに合わせて振動してより臨場感のある体験が出来ました。
しかし、プレイステーションに振動コントローラを先行される事態になってしまったんです!
振動パックが発売されたのは1997年4月27日。
ソニーはその2日前の1997年4月25日にアナログコントローラ(デュアルショック)をプレイステーション向けに発売して元祖振動コントローラの座を獲得します。
元々、振動パックは1996年末の展示会には完成していましたが、「スターフォックス64」に合わせて発売していなかったんです。
それ故に他社に先行されてしまったので、これ以降、任天堂は独自の新アイデアは製品発売の目処が立つまで公開を見送るようになったと言われています。
有力タイトルの不足によって失速
同時期には本体価格を25,000円から16,800円に大幅値下げ。
発売から1年もしないうちに8,000円も下げたのは良いものの、肝心のソフトが集まらず、売上は大して伸びませんでした。
※ファミ通476号より。
↑コンシューマーゲーム黄金期の1997年当時の週間売上。
上位をプレイステーションソフトが圧倒的な売上で埋める中、N64は「ヨッシーストーリー」が下位にひょっこりランクインするのみで苦戦しているのが分かります。
「ヨッシーストーリー」はスーパーファミコンで大ヒットした「ヨッシーアイランド」の続編で、1997年末の目玉タイトルとして送り出されました。
が、売上は予想を大きく下回り、販売価格は暴落。
翌年からワゴンセールの常連となってしまいました。
影の貢献者が誕生!
1997年のN64市場は最悪なものでしたが、その中にはキラリと光る名作が誕生します。
その1つがレア社が開発した「ゴールデンアイ007」。
人気映画を題材にした一人称視点のアクションシューティングゲームですが、本作に収録されていたマルチプレイモードの完成度が相当なものだったんです。
その影響で海外では爆発的な人気となり、世界累計出荷本数は800万本を突破しました。
一方、日本でも一定の人気を博し、口コミでジワジワと売上を伸ばしていきます。
国内での累計売上は20万本とも30万本とも言われていますが、友達の家でプレイした人をプレイヤーに含めたら100万単位は居るでしょう。
当時の国内市場ではFPSというジャンルは浸透していなかったので、本作で生まれて初めてFPSをプレイしたという方はかなり多いのではないでしょうか?
国内でも2010年代にはFPSのヒット作がPS4やPS3向けに続々と発売されたことを考えるとN64「ゴールデンアイ007」は時代を先取りしたと言っても過言ではありません。
どん底を支えたコナミとハドソン
数多くのサードパーティから逃げられてしまったN64。
しかし、少ないながらもN64市場を支えてくれたサードパーティが存在しました。
特に目立っていたのが、コナミとハドソン。
プレイステーションバブルの中、コナミは「実況パワフルプロ野球」シリーズのナンバリングタイトルをN64向けに発売し続けました。
その中でも1999年に発売された「実況パワフルプロ野球6」は30万本を超える売上を記録し、N64のサードパーティ製タイトルでは最大のヒット作となっています。
コナミがN64向けに発売したタイトルはトータルで26本。
N64ソフトの累計発売タイトル数が200タイトル程度であることを考えると、実に1割以上がコナミ製になります。
何故、コナミはこれだけ多くのゲームをN64向けに供給したのでしょうか?
大きな要因としてはアナログスティックの標準搭載というものがあります。
リアリティや操作性が重視されるスポーツゲームではアナログスティックの標準搭載は大きな魅力だったんです。
ハドソンは「ボンバーマン」シリーズを中心に展開。
もう一つの看板タイトルである「桃太郎電鉄」こそ発売してませんでしたが、代わり「マリオパーティ」シリーズの開発を手掛けるなどN64への貢献度は相当なものです。
そんなコナミとハドソンですが、奇しくも2005年にはハドソンがコナミの子会社となりました。
さらにコナミは2010年代に入ると任天堂ハードどころかコンシューマー向けに新作をほとんど供給しなくなるのですから、N64時代の活躍は今では信じられません。
※積極的にN64ソフトを発売していたサードパーティは他にもイマジニア、ケムコ、カルチャーブレーンが存在します。
1998年:N64の逆襲が始まる!?
ポケモンがN64を救う?
N64が発売されてから2年。
どんどん勢いを増すプレイステーション市場とは裏腹にN64市場は崩壊寸前の状況でした。
当時はプレイステーションが週に2~3万台売れる一方、N64は週に3,000~4,000台程度。
開発の遅れによって頼みの任天堂でさえも半年近くソフトを出せない状況で、
このままバーチャルボーイのようにフェードアウトしてしまうんじゃないか?
それほど絶望的な状況でした。
そんな中、任天堂にとって1つの幸運が訪れます。
1996年に発売されたGB「ポケットモンスター 赤・緑」が空前の大ブームになったんです!
ゲームソフトはもちろん、TVアニメ、映画、グッズなどのメディアミックスがどんどん展開され、1998年頃には市民権を得ていました。
そのため任天堂の業績自体は好調で、N64事業は散々でしたが、ゲームボーイ事業は好調だったんです。
この勢いを少しでもN64へ持って行くべくして行ったのが、「N64 ダブルゲットだぜキャンペーン」。
1997年12月~1998年1月にかけて行ったキャンペーンで、N64を購入すると「うたうポケモン図鑑」と2枚のポケモンカードが貰えました。
どの程度の効果があったのかは不明ですが、少しは本体購入の後押しになったと思います。
続いて発売されたのが「ポケモンスタジアム」。
本作は空前の大ヒットとなった「ポケットモンスター」の戦闘ツールで、自分のデータを持ち寄ってテレビ画面で迫力のポケモンバトルを楽しめる作品でした。
GB「ポケットモンスター」の戦闘画面はとにかくチープだったので、当時の子供たちにとって自分のポケモンがフルカラーの3Dポリゴンになって戦えるのは大きな魅力だったんです。
こうしてポケモンブームの力によってN64市場は一時的に復調。
しかし、「ポケモンスタジアム」は急造品と言われても無理もないほど完成度が低い作品でした。
戦闘で使用できるポケモンは151体中40体。
戦闘以外の要素は補助的なもの中心で遊び要素は皆無。
それ故にロングヒットせず、N64の勢いを持続させるには至りませんでした。
伝説の名作が誕生!
1998年秋。
「ポケモンスタジアム」によるブーストは早くも途絶え、再び失速を果たすN64に真の救世主が現れます。
それがゼルダの伝説 時のオカリナ!
本作は3Dのアクションアドベンチャーゲームで、当時としては最先端のシステム・技術を駆使して作られた傑作になります。
その高い完成度は世界中のゲームメディアが唸るほどで、以下のような大快挙を成し遂げたんです!
・海外のメタスコアは歴代最高の99点を獲得。
・1998年のゲームオブザイヤーを受賞。
売上も好調で、国内ではあっという間に100万本を突破。
海外でも絶好調で、最終的な出荷本数は760万本を突破しました。
個人的にも本作から受けた影響は相当なものだったりします。
実は当時、N64には失望しきってPS1に乗り換えようとしていたんですよ。
でも、本作をプレイしてN64や任天堂にずっとついていくと決めたんです。
それ以降、ぼくは歪んだ価値観を持つようになってしまい、暗黒期に突入しますが、その辺りの話は以下の記事をご覧ください。
任天堂信者でPS嫌いだった僕が全機種を愛するゲーマーに更生した話
年末に続々とヒット作が誕生!
「ゼルダの伝説 時のオカリナ」で息を吹き返した1998年末のN64ソフト市場ですが、ここからさらにヒット作が続出します。
まず触れたいのが「バンジョーとカズーイの大冒険」。
本作はレア社が手掛けた3Dアクションゲームになります。
「スーパーマリオ64」との類似点が多く見られましたが、独特の作風によって海外では350万本を超える大ヒットを記録。
日本での売上は40万本程度ですが、「大乱闘スマッシュブラザーズ」での参戦を熱望されるほど一部では強烈なファンを生み出すことに成功しました。
続いて触れたいのが「ピカチュウげんきでちゅう」。
本作は業界初となる音声認識システムを搭載したコミュニケーションゲームになります。
マイクに向かって声を発することで画面の向こうに居るピカチュウが反応したので、当時ポケモンに夢中だった子供達にとっては最高のゲームでした。
翌年、同じく音声認識システムを採用したドリームキャスト向けの「シーマン」がヒットしたことを考えると本作も時代を先取りした作品と言っても良いでしょう。
最後に触れたいのが「マリオパーティ」。
本作はマリオファミリーが活躍するパーティゲームになります。
開発は「桃太郎電鉄」のハドソンが行っていたこともあって完成度は高く、特に50種類のミニゲームは好評を博しました。
セールスも好調で、発売直後は売り切れ店が続出。
チャンスロスが響いてしまい、惜しくも100万本を突破しませんでしたが、これ以降、毎年のように新作が発売される定番シリーズと化します。
1999年:ようやく本領を発揮してきたN64!ヒット作を連発!
最強の定番タイトルが誕生!
ゼルダの伝説 時のオカリナ、バンジョーとカズーイの大冒険、ピカチュウげんきでちゅう、マリオパーティ。
このようにN64は1998年末に大ヒット作を続々と生み出しましたが、さらなるヒット作を1999年初頭に生み出します。
それが大乱闘スマッシュブラザーズ!
本作は任天堂の人気キャラクターが集結した対戦アクションゲームになります。
初週売上こそは20万本程度でしたが、意外な奥深さによって口コミで人気が広まっていきました。
その持続力は相当なもので、発売から1年が経っても売上ランキングの上位にランクインを果たします。
その結果、最終的には「スーパーマリオ64」や「マリオカート64」に並ぶほどの累計売上となったんです!
本作の大ヒットを受けて「大乱闘スマッシュブラザーズ」はシリーズ化。
作品を重ねる毎に参戦キャラクターが増えていき、今や任天堂だけではなく他社キャラクターも参戦するほど巨大なシリーズと化しました。
そのため各シリーズのファンを巻き込むことに成功し、今や任天堂タイトルの中では最も初動売上が高いシリーズになるほどのキラーコンテンツと化したんです。
ポケモン頼みのソフト展開が加速!?


1999年春には「ポケモンスナップ」「ポケモンスタジアム2」を連続で発売。
前年から始まったポケモン頼みのソフト展開がさらに加速していきますが、これらのタイトルはユーザーの間で比較的高く評価されました。
「ポケモンスナップ」は写真撮影をメインとしたゲーム。
レール移動でコースを進行して生息するポケモンを撮影していくのが楽しいゲームでした。
「ポケモンスタジアム2」は前年に発売された「ポケモンスタジアム」の上位互換的な位置付けのゲーム。
今作では151匹すべてのポケモンを戦闘に参加出来たほか、裏モードやミニゲームを追加したことでボリュームが大幅にアップしています。
64DDがようやく発売されるも・・・
1999年12月には64DDがようやく発売。
しかし、会員制という謎の販売システムにより累計販売台数は1万台程度で留まるという歴史的な失敗ハードとなってしまいました。
当初は本ハードで「ドラゴンクエスト」「ファイナルファンタジー」「MOTHER」シリーズ最新作が発売予定であったことを考えるとあまりにも酷い結末です。
結局、64DDは存在感が皆無となってしまい、1999年末のN64市場は「ドンキーコング64」や「マリオパーティ2」ばかりに注目が集まっていきます。
※64DDの詳しい歴史についてはいずれ語っていきます。
2000年:次から次へと傑作が発売!少数精鋭戦略が実る!
時は流れること2000年。
この頃になるとドリームキャスト、プレイステーション2といった次の世代に移り変わりつつありました。
その影響でN64市場はピークを過ぎてしまい、本体売上だけではなく発売タイトル数も激減していきます。
しかし、この頃に発売されたN64ソフトの多くはとんでもないクオリティだったんです。
当時の任天堂は少数精鋭主義でした。
大量の2流ソフトよりも数本の1流ソフトを!ダメゲームは発売する価値なし!
その考えがサードパーティ離れを加速させた訳ですが、この頃、ようやく少数精鋭戦略が実り始めました。
星のカービィ64、ゼルダの伝説 ムジュラの仮面、マリオテニス64、マリオストーリー、風来のシレン2 鬼襲来!シレン城!、パーフェクトダーク、カスタムロボV2、罪と罰 〜地球の継承者〜、マリオパーティ3、ポケモンスタジアム金銀
軽くタイトルを挙げてみましたが、なんと、これらのタイトルはすべて2000年に発売されたんです!
何故、これだけ高い打率を実現したのでしょうか?
それは、任天堂の開発体制にありました。
どんなに苦しい状況でも急いでゲームソフトを発売せず、じっくり、じっくりと煮込んで作り続ける。
そういった強い信念を持って開発されたタイトルがこの頃に揃って発売されたんです。
個人的にはこの頃のN64市場が一番好きだったりします。
なんと言っても「マリオアーティスト タレントスタジオ」「風来のシレン2」「ゼルダの伝説 ムジュラの仮面」に大ハマリしましたからw
これらのタイトルは完成度が極めて高く、個人的に好きなN64ソフトの5本指に入れても良い程です。
2001年:最後に生まれた希望の光
発売中止のタイトルが続出!?
N64が発売されてから5年目となる2001年。
この頃になると任天堂もゲームボーイアドバンスやゲームキューブの開発に力を入れるようになり、N64は第一線から退くことになります。
それだけならまだしも、N64向けに発売予定だったタイトルが次々と中止になってしまったんです!
MOTHER 3 豚王の最期、キャベツ、エコーデルタ、動物番長、ゼルダの伝説DD。
タイトルを挙げたらキリがないくらいあります。
その中でも痛かったのが「MOTHER 3 豚王の最期」の発売中止。
本作はスーパーファミコンで人気を博した「MOTHER2 ギーグの逆襲」の続編で、RPGファンを中心に本命視されていました。
しかし、開発が遅れてしまい、N64のピークが過ぎてしまったことから開発を中止せざるを得なくなったんです。
ニンテンドースペースワールド99にてプレイアブル出展をされるなど一時は開発は順調に見えていただけに、発売中止のショックは相当なものでした。
N64専門誌だった64ドリームでは発売を待ちわびていたファンを中心に批判が殺到。
同時期には64DD向けのサービスが早くも停止されることが判明し、再びN64界隈で暗いニュースが続出することになります。
最後の名作が誕生!?
2001年に発売されたN64ソフトは僅か6本。
前年の37本から激減してしまいましたが、その中の1本が後の超人気シリーズとなったんです。
そのタイトルとは「どうぶつの森」になります。
本作は森の住人となって生活を楽しむコミュニケーションゲームで、コントローラパックを使って友達の森へ遊びに行くことが大きな特徴となっていました。
家族や友達とゲームを通じてコミュニケーションを取っていく斬新さ。メルヘンな世界観が受け入れられたのか、その人気は徐々に拡大。
発売週の売上こそは3~4万本程度ですが、そこからジワジワと売れて25万本以上のヒットになります。
その後はゲームキューブやニンテンドーDS向けに新作を発売。
特にDS向けに発売した「おいでよ どうぶつの森」は国内だけで500万本以上を売り上げるメガトン級のヒット作となりました!
これは「ドラゴンクエスト」「ファイナルファンタジー」「モンスターハンター」シリーズの国内売上を上回るほどの天文学的な数字になります。
スーパーファミコンからの移行に失敗してしまい、任天堂が王者から転落してしまう要因を作ってしまったN64ですが、最後にとんでもないタイトルを生み出しました。
全体のまとめ
以上!N64の5年間を振り返ってみました!
初期の躓きが響いてしまい、任天堂を一番手から三番手に陥れる要因を作った罪深きゲーム機であることは確かですが、本ハードがコンシューマーゲーム市場に与えた影響は計り知れません。
マリオパーティ、大乱闘スマッシュブラザーズ、どうぶつの森。
「スーパーマリオ64」「ゼルダの伝説 時のオカリナ」で3Dアクションゲームの基礎を構築させたのはもちろん、これらの人気シリーズを生み出したゲーム機なのですから、数字だけでは語りきれないところがあります。
何よりもぼくの人生に大きな影響を与えてくれました。
何度も言うように本ハードが存在しなかったら今のぼくはこうしてゲームブログを運営していませんから。
それだけ当時は本ハードにかける情熱が凄かったんです。
あの時の思い出は20年や30年経っても忘れることはありません。
おまけ:N64こぼれ話
当時の低年齢層には絶大な人気!
国内で累計554万台を売り上げたN64ですが、ユーザー層はかなり偏りがありました。
メインとなるのは小中学生(1990年生まれ前後)で、高校生以上になるとプレイステーションやセガサターンをメインハードにするユーザーがかなり多かったんです。
そのため大人たちの間ではほとんど相手にされず、マスコミの間で報道されるのはプレイステーションの人気タイトルばかりという状況でした。
しかもN64市場は長続きしなかったので、すぐ下の世代になるとゲームボーイアドバンスやゲームキューブがメインハードになるという状況だったんです。
それ故にN64へ思い入れが深い世代はかなり狭いので、思い入れが深い者としては同士を見つけてしまうと戦友のように感じてしまいますw
対戦ゲームが大人気!
N64市場を語る上で外せないのが対戦ゲームです。
N64はコントローラポートが標準で4個搭載された初のゲーム機だったので、マルチプレイモードを入れることがお約束になっていました。
マリオカート64、スターフォックス64、大乱闘スマッシュブラザーズ、ゴールデンアイ007、マリオパーティ。
N64を持っていなくても友達の家でこの辺りのゲームを2~4人で対戦した人も多いのではないでしょうか?
N64を100%楽しむには対戦ゲームが必要不可欠です。
ぼくがN64への思い入れが深いのは、シングルプレイだけではなくマルチプレイも含めて楽しんだことが大きな要因だったりします。
北米では好調!
日本では失敗ハード扱いのN64ですが、北米では好調でした。
それでもプレイステーションには劣りますが、「ゴールデンアイ007」は大ヒットしましたし、スポーツゲームの販売も好調だったと聞いています。
何故、北米では好調だったのかと言うと、マーケティングが北米先行だったからです。
よく考えてみるとN64が最初に発表されたのは北米でしたし、本体のデザインもアメリカンでした。
加えてソフト開発のほとんどは海外メーカーが中心だったりします。
N64で妙に洋ゲーが多いのはこの辺りに要因が隠されているんです。
N64でプリレンダリングムービーを強引に使用したゲーム
N64の大きな弱点はロムカセットを採用してしまった故に低容量であることです。
そのため他ハードと比べてボイスをあまり収録出来ず、綺麗なCGキャラクターが印象的なプリレンダリングムービーも流せませんでした。
そんなN64の先入観を打ち破ったのが2000年に発売された「バイオハザード2」。
本作は1998年に発売されたプレイステーションソフトの移植作ですが、大容量のロムカセット&圧縮技術によって強引ながらもN64でプリレンダリングムービーを実現しています。
本作に続いて「バイオハザード0」もN64向けに発売予定だったんですが、開発の遅れによって対応ハードはゲームキューブに変わってしまいました。
発売されたRPGはごく僅か
国内でN64が苦戦した要因は数多くありますが、その中でも大作RPGの不足は大きな痛手でした。
なんと、「ズール 魔獣使い伝説」が1999年に発売されるまでの3年間、N64向けのRPGは一本も発売にならなかったんです!
最終的に発売されたのは以下の5タイトルになります。
・ズール 魔獣使い伝説
・エルテイルモンスターズ
・ロボットポンコッツ64 〜七つの海のカラメル〜
・マリオストーリー
・風来のシレン2 鬼襲来!シレン城!
アクションRPG、シミュレーションRPGを含めたらもう少しありますが、それでも他機種と比べたら全然発売されていません。
そんな状況を打破するのが「MOTHER 3 豚王の最期」だったんですが、開発の遅れによって発売が中止になってしまいましたorz
その後、「MOTHER 3」はゲームボーイアドバンス向けに形を変えて発売されましたが、ぼくはN64版を楽しみたかった・・・。
人生で外れ率が一番低いハードでしたね。まさに少数精鋭が成功してたと思います。
今でもRTAがこんなに栄えてるとは当時は誰も想像できなかったでしょうね。絶妙にバグりやすい(特にワープ)ハードですからね笑